SABAすたいる

スイスのくらし、旅のエッセイ、日々のできごと、おもうこと。

賢者の贈りもの、嵐のあとに。

 6月もなかばをすぎると、スイスの短い夏のはじまりを告げる、ちいさな嵐がやってくる。それは、あっという間にやってきて、あっという間に去ってしまうのだけど、ちいさいからといってあなどれないパワフルさで、わたしたちをおどろかせる。

はじまりは、こうだ。

朝から一点のくもりもなく、カラッと晴れていた空に、みるみる灰色の雨雲がたちこめたかとおもえば、へんな湿った風がピューピューふきはじめる。

チカチカっと稲光を合図に、やがて風はモウレツないきおいで、雨を、ひょうを、ちぎれた木の枝を、窓にたたきつける。

その狂暴さといったら!

f:id:sababienne:20190620225938j:plain

窓のそとは、まるで洗浄中の食洗機のようなありさまで、屋外に駐車してある車や、スチール製の雨戸が、ボコボコに凹んでしまうほど。

嵐のあとで歩いてみると、路上にバット大の枝がいくつも落ちていて、こんなものが宙を飛んでいたのかとおもうと、ぞっとしてしまう。

わたしも日本人だから、台風にはなれているはずなのだけど、台風のかぜが一定方向にふくのにたいし、この嵐は縦横無尽、三百六十度にふきすさぶ。

なんというか台風とはまたべつの種類のすごさに、足がすくんでしまうのだ。

かつて日本では、台風のため電車がとまっても、暴風雨のなか傘をおちょこにしながら、線路づたいに歩いて出勤するのが「やる気」だと評価された時代があったけれど、スイスのこの嵐でそれをやったら負傷は確実だとおもう。

もっとも、やる気をみせるために嵐のなか出勤しようとするスイス人が、いったい何人いるかと問われれば、自信をもって「ひとりもいない」と答えられるのだが。

そんな嵐のあとの、土曜の午後のこと。

わたしは、友だちの誕生日会に顔をだした。

すこし遅れて到着してみると、部屋のかたすみにみんなで仲よく顔をよせあって、なにやら人の輪ができている。

「ロマンティックねぇ」

ひとりがいうと、全員がうっとりうなずく。

なにかとおもえば、この日誕生日をむかえた友だちが、だんなさまからもらったというプレゼントの写真を、スマホの画面でおひろめしているのだった。

ところで諸外国の多くにおいて、恋人や奥さんへの贈りものは「ロマンティックなもの」でなくてはならない、というのがひとびとの共通認識となっているようである。

フランス語の学校にかよっていたころ、クラスで「直近の誕生日のプレゼントに何をもらったか?」という話題になったことがあった。

クラスメイトは、結婚や駐在でジュネーブにやってきたばかりの主婦が大半で、スペイン、イタリア、ロシア、シリア、キューバ、コロンビア、チリ、南アフリカ、北朝鮮、とインターナショナルな構成。 

それぞれ、花束やら、チョコレートやら、ジュエリーやら、自身がもらったプレゼントを順番にいっていくなかで、「ダイソンのそうじき」をもらったというのは、わたしのほかにもうひとりいた日本人のクラスメイトである。

これが、物議をかもした。

「まるで”おそうじおばさん”あつかいね」

「プレゼントがそうじきなんて、幻滅だわ」

「そうじき?そこにLOVEはあるのかしら?」

インターナショナルチーム総がかりで、大ブーイングがはじまった。

「ただのそうじきじゃなくて、ダイソンだから」

などという、なまぬるい日本代表チームのディフェンスなど、まったく歯がたたぬ攻撃力でもって、インターナショナルチームが圧倒的勝利をおさめたのだった。

ちなみにその年、わたしがもらった誕生日プレゼントは、パソコンのディスプレイ(DELLのちょっと高いやつ)だったが、不毛な争いを避けるため、花とかチョコとか、無難なものをもらったことにしてごまかしたのを覚えている。

さて。

話を元にもどすと、誕生日をむかえた彼女である。

目にした全員を「ロマンティックねぇ〜」とうならせるほど、ロマンティックな贈りものとは、なかなかのシロモノであるにちがいない。

いったい、何をもらったのだろう?

興味しんしんで、彼女のスマホをのぞきこんだわたしがそこに見出したのは、日本の石灯籠である。

歴史をさかのぼっても、石灯籠を誕生日にプレゼントされた日本人が、はたして何人存在するだろうか?

その斬新な発想に、ユニークさに、すっかり面食らってしまったわたしは、おもわずそうつぶやいた。

「本場の日本人でもめったにもらえないものを、もらえたあなた(スイス人)はラッキーね!」

だれかが、わたしのつぶやきをいい意味に受けとってそういうと、全員が大きくうなずいた。

「夏の夜更けとか雪の日に、キャンドル灯して庭をながめたらステキでしょう?」

いまはまだピカピカに新しいけれど、日本の古い社寺にあるそれのように、苔むして味わい深く変化していくのを楽しみにしている、と彼女はしあわせそうに微笑んだ。

いまよりちょっと年を重ねた旦那さまと彼女が、苔むした石灯籠にキャンドルを灯して庭ですごすようすが、目に浮かぶようだった。

カップルの数だけ、贈りもののかたちがある。

ダイソンだって、DELLだって、花だって、ジュエリーだって、石灯籠だって。

目をむけるべきは、何をもらったかじゃない。

大切なのは、その背後にある気持ちだ。

そこにカップルなりのストーリーがあれば、どんな贈りものだって「ロマンティック」なのだ。

嵐のあとに。

ロマンティックな気分をおすそわけしてもらったわたしは、その気分にしばらくひたっていたくて、バスには乗らず家までのんびり歩いて帰ることにした。

こんどの誕生日には、iPadをリクエストしようとおもっていたのだが、ほんとうにそれでいいのか?

自問自答しながら。

賢者のおくりもの

*物欲に毒されて、贈りものの背後にある気持ちに目をむけることを、すっかり忘れているきょうこのごろ。。

f:id:sababienne:20190620230050j:plain

*ベランダに降り注いだ、小石大のひょう。

f:id:sababienne:20190620225943j:plain

*ローズマリーの苗も、根こそぎふきとばされるありさま。