フェミナ(FÉMINA)という、青い箱に入ったチョコレートがある。スイスのチョコレートブランド・カイエ(CAILLER)のもので、ちょっとずつちがう味のプラリネが詰めあわされている。専門店でしか買えないような、ひと粒がショートケーキぐらいするチョコレートに比べればお手ごろで、スーパーマーケットでも買うことができる。かといって、ふだんからムシャムシャ食べるにはちょっとぜいたくかもしれず、ちょっとした手土産や集まりにちょうどよい、という位置づけのチョコレートである。
だからなのか。フェミナの青い箱が家にあると、それだけで心がはずむ。その四角くて青い箱をあけると中には七種類の味と形のプラリネが、ひと粒ずつ、うすい銀紙に包まれて銀色のトレイにおさめられている。余分な装飾や派手さはいっさいない。むしろ地味すぎるくらいシンプルなのだが、そのさまは、まるで小宇宙のように美しい。
Malakoff 、Gianduja 、Dentelle 、Mocca 、Avelotte 、Marquise、そして、Bûchette。七種類のプラリネが整然とならんでいる。その少しずつちがう形に目を走らせ「今日はどれを食べようか」とムダに悩む。この瞬間をどんなにわたしが愛していることか。
Rは知らないにちがいない。
いま、わが家の居間にはそのフェミナの青い箱がある。昨日、遊びにきた知り合いが、手土産にもってきてくれたものだ。そこで、三時のお茶の時間にいつもなら、駄菓子をわさわさと袋からつかみだすところを、わたしは美しい青をまとったその箱にそっと手をかけ、ゆっくりふたを開けたのである。美しいフェミナの小宇宙が、そこにあることに胸をときめかせて……。
ところが、一秒後。箱をあけたわたしの手は、わなわなと震えていた。なぜなら、七種類のうちBûchetteだけがきれいさっぱりなくなっており、六種類の詰め合わせになっていたからだ。均衡をくずされた美しい小宇宙には、そこにはかつてたしかにBûchetteが存在した、という跡だけがむなしく、歯のぬけたように点々とのこされているのみだった。犯人はわたしでなければ、アイツしかいない。この家にBûchette好きなねずみが住みついている、というなら話は別だけど。Bûchetteは、Rの好物なのである。
しかし、このような食べ方は(子どもならまだしも)大人としていかがなものだろう。他にもBûchetteが好きな人がいるかもしれない、などという発想はないのだろうか? わたしは首をひねる。寿司の盛り合わせを皆で食べるとき、マグロが好きだからといってマグロだけ独り占めして食べて、他のネタには手をつけない大人がいるだろうか?
もっとも、わたしはBûchetteが特に好きというわけではないのだけれども、というと、だったらいいじゃないか、と思われるかもしれない。しかし、よくないのである。せっかくの詰め合わせなのだから、わたしはそのバリエーションを楽しみたい。きのうはDentelleを食べたから、今日はBûchetteといった具合に。寿司ならば、いかの後はいくら、といった具合に。そのような楽しみもまた「好きな味だけを食べる楽しみ」と同じぐらい尊重されて然るべきなのではないだろうか?
わなわなしながら、わたしがそういうと、
「チョコレートぐらい、また買ってきたらいいじゃん」
論点のずれた返事が、Rから返ってきた。
チョコごときで騒ぎすぎなわたしの方が、おかしいのだろうか?
もやもやしたので、たまたま会った知り合いにこの話をすると、
「なんか、そのまんまパワポでスライドにして、どっかでプレゼンできそうだよね」
と、ますます論点のずれた反応が返ってきた。
どっかで、ってどこだ?
もやもやしながら、これを書いている。