くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

好き・キライ・やっぱり好き?骨董市で試される幸せの握力

ジュネーブの代官山、と勝手にわたしが呼んでいるカルージュ(Carouge)は、お洒落なカフェや雑貨屋さんがならぶかわいい街。年に一度の骨董市をやっていたのでのぞいてみた。

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会場は地域の公民館。

遺跡から出土しました的な考古学的な壺や絵画などの美術品から、家具、食器、アクセサリー、ヴィンテージのブランド品まで、それはもうテイストも年代も由来も値段も様々なモノたちが雑多にならべられている。

週末の昼さがりとあって、目的もなく時間にせかされることもなく、ゆっくりぶらぶらする大人たちでいっぱい。

エルメスのバッグを斜めがけにしたマダムの二人連れは、クリスタルのワイングラスを品定め。お掃除モップみたいなワンちゃん連れの老夫婦は、刺繍がほどこされたリネンをひろげて何やら思案中。

さながら大人の宝さがしである。

片隅のカフェでPlat du Jour(定食)にワイングラスを傾けながらおしゃべりに夢中だったのは、なんとアンティークショップの店主たちだった。その間お店は無人と化しているらしく、ときおり客が店主をさがしにやってくるというユルさがステキ♪

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骨董市にくると「好きなものがハッキリしている人」がつくづくうらやましく思う。

たとえば、

いつのまにかガラクタの山からみつけた子供服のボタンを「帯留めにするの♪」と握りしめていたりする着物好きのSさん。

ちょっと変わったお皿をみつけるや否や、すでにどんな料理を盛り付けるかアイデアが2つ3つ頭に浮かんでいるお料理好きなUちゃん。

好きなものがハッキリしてるから、膨大なモノたちの中からコレぞというものを見つける天才で、それはもう目にもとまらぬ鮮やかさ。何でもなかったボタンやお皿も、彼女たちが手にしたとたん急に魅力的に見えて、みているこちらまで楽しくなってしまう。

それにひきかえ私ときたら、いろいろ見すぎて決めかねて時間ばかりかけたわりに空ぶりってことが多い。

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*3年前におなじ骨董市でみつけたモノ。ボタンは千円、ネックレスは二千円也。この時はめずらしくビビッときて♪ いまだ愛用中です。

ブランドとか、流行とか、レビューとか、他人の判断指標がじゃんじゃん入りこむ余地のある他の買い物とちがって、骨董市は「自分の価値観がすべて」みたいなところがある。

好きかキライか、自分にとって価値があるかないか。値段もあってないようなもので、価値は自分が決めるもの。品定めしているつもりが実はモノの方から選ばれている部分もあったり、自分そのものが試される場所でもある。

だから自分アンテナがビシッと立ってないとダメ。

決めかねるということはつまり「価値観があやふやならばモノを買う資格がないよ」と言いわたされているようなものだ。

それにだいたい「好きなものがハッキリしている人」というのは、人生においても幸せをつかむ握力がハンパなく強い。

反対に、何が好きか何に重きをおくかが定まっていないひとはチャンスにも気づけない。仕事も、恋愛も、夢の実現も。ぼやっと決めかねているうちにチャンスはどんどん去っていく。

だから。

SさんやUちゃんみたいにパパッと買い物ができるような人になりたいなぁ、とつねづね思っているわけなのだけど、、道遠し。

けっきょく今日も決めかねて、手ぶらで会場をあとにする私なのだった。

かえり道。バスを待つあいだ「あの彫像はよかった」とか「サンゴのネックレスはもう少しで買うとこだった」とか、夫と語らいながらふとSさんのことばを思い出した。

そうやってイジイジするのが楽しいんじゃな〜い♪

そう。イジイジする楽しみが存在するのもまた真なり。

骨董市も、人生も♪ 

Sさんがイジイジしてるのって見たことないのですけどね。。

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*カラフルな建物がかわいいカルージュの街、青空が目にしみます。。