変わってる人ですね、っていうのは、ほめ言葉じゃないかも。
そう気づいたのはもうだいぶいい大人になってからだ。
ユニークな人、とか、おもしろい人、とか。
いい意味が含まれている場合ももちろんあるけれど。
むしろ「こまった人ですね」とか「つきあいづらい人ですね」と言いたいけど、
そうははっきり言えない時に、でてくるのが「変わってる人ですね」なのである。
さいきん「変人」が主人公の映画を、四本たてつづけに観るはめになった。
- ”ゴーギャン、タヒチ、楽園への旅”
- ”ジャコメッティ 最後の肖像”
- ”ガラスの城の子どもたち”
- ”ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男”
はめになった、というのは、なにも意識して「変人」映画ばかりを選んだワケではない、という意味においてである。
無意識にそうなったということで、なにか深層心理が反映されているとしたらちょっと心配なのだけど、こうたてつづけに「変人」映画ばかりみることになってみると、そこにはあらたな発見もあった。
それは、このジャンル、好きかもしれない!ということだ。
このつぎ、好きな映画のジャンルは?と聞かれることがあれば(まぁ、めったにそんな機会はないけど)「変人」映画ですとこたえてみたい。
そう思わせる魅力が、「変人」映画にはある。
たしかに、あるのだ。
まず第一に。
映画でみるかぎりにおいて「変わってる人」は魅力的だ。
みえてるものが、普通の人とちがう。
流れている時間が、ちがう。
奇想天外な言動に、破天荒な人生。
観ていると、痛快な気分になってくる。
ただしこんなひとが、じっさい近くにいたらたまったものじゃない、というのは、パニック映画やホラー映画とおなじ原理だ。
つまり「映画でみるかぎりにおいて」というのはそういう意味で、みずからは、映画館のふかふかのシートにゆったり腰かけ、けっして実害がふりかかってこない安全地帯に身をおくこと。
これは「変人」をたのしむうえで、絶対はずせない条件である。
そうしておいて、スクリーンの中の「普通の人たち」が、「変人」に翻弄され、困り果てているようすをみるのは、本当におかしい。
たとえば、ジャコメッティ。
彼に振り回されるイケメンモデルの困惑ぶりは、ほんとうにおもしろいので、もしよかったら、トレイラーを見てみてください。
キャンバスの向こうから、あんなふうにこっち見られたら、わたしだったら吹き出してしまって、絶対モデルはつとまらないとおもう。
ジャコメッティは、スイスの100フラン紙幣に顔と、あのガリガリの彫刻が印刷されていて、ものすごく神経質で繊細そうなヒトのイメージだったのに。
まさかこんな変人だったとは!
ところで。
そもそも、ただの変なヒトで終わらず、何かしらの偉業を達成したからこそ、映画の主人公にもなれるんでは?
それこそが主人公の魅力なのでは?というご意見もあるかもしれない。
じっさいジャコメッティとゴーギャンは、芸術家だし、チャーチルは、政治家として歴史に名をのこす人物だし。
たしかに、こういう人物の偉人伝としてのおもしろさは、あるのだろうけれど。
じゃあ偉人だったらだれでもおもしろい映画になるかといえば、そういうことでもないわけで。
このガラスの城のお父さんなんて、百パーセントただの困ったひとだし。
ようするに。
主人公が魅力的である、ということに、才能や、カリスマ性や、偉業は、かならずしも必要ではない。
ポイントは、主人公のにくめなさと、愛嬌にある、とわたしはおもう。
そして、それがどこからくるかといえば、主人公がいつだって大真面目で、苦悩しているところなのだ。
You are strong, because you are imperfect.
You are wise, because you have doubt.
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」より
ヒトラーとの交渉に応じるか?
犠牲をはらってでも抗戦するか?
この世紀の決断をせまられたチャーチルに、妻がこのようにいって「あなたなら、きっと最善の決断ができるわ」というシーンがある。
このセリフに、のっかって言わせてもらうならば。
不完全で、苦悩しているから、この主人公たちは魅力的なのだ。
そう、わたしはおもう。
愛すべき「変人」たち!
でも、正直。
つぎみる映画は、普通のひとの映画がいいかなぁ。
変人映画は、観るのにエネルギーがいります。
*チャーチルおじいちゃんのチャーミングなことときたら!!!10分にいちどは、映画館に笑いがおきるほど。かずある迷言の中から、ネタバレになってもなんですので、ひとつだけ。わたしが一番好きだったのは「俺の話をさえぎらずに最後まで聞け!いま俺が君の話をさえぎっている最中なんだから!」です♪