くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

だれのものでもないわが道:フランスの、田舎で、週末を(4)

朝ごはんのあと、でかけた散歩の途中、「売り家」の札がかかった家をみつけた。

ひとの気配が消えて久しいのだろう。

そこだけ時間が止まってしまったような、しずかな空気を全身にまとって、その家はひっそりと佇んでいた。

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「私たちの家も、ちょうどこの辺りをサイクリングしているときに、ぐうぜん見つけたのよ」

とジャッキー。

「ただし、”売り家”の看板がでていたワケじゃないから、話は長くなるんだけど」

そう前置きして、語ってくれたのは、山あり、谷あり、人情ありの、映画が一本撮れてしまいそうにドラマティックな物語だった。

「すてきな家だなってね。遠目にみた瞬間ピンときたの」

自転車を降りて、家のまわりをぐるりと歩いてみた。

窓にカーテンこそ掛かっているけれど、人が生活している気配がぜんぜんなくて、空き家のようだった。

そう、ちょうど、この家のように。

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けれども、売り家の看板は、見当たらない。

「いくら気に入っても、売りに出ていないのでは、しかたがないわよね」

あきらめて自転車をとめた門柱までもどってみると、郵便物があふれたポストが目にはいった。

「ほんとうに、はみだしていたのが、見えちゃったのよ」

けっして、手をつっこんでひっぱりだしたのではない、と念をおしてから、ジャッキーは続けた。

はみだした郵便物の宛先から、ぐうぜんその家の主の名前を知ることになった二人。

恋におちたような心持ちで、ぼーっと自転車をおして歩いていると、むこうから村人のおばさんがやってきた。

二人にとって幸運だったのは、まず、人里はなれたこの村で人間に遭遇できたこと、そしてこのおばさんというのが、村でも1、2を争うおしゃべりだったことだろう。

このおばさんのおかげで、あの家の主が、身寄りのないおじいさんで、いまは老人ホームで暮らしていることがわかったのだ。

ともあれ話だけでもしてみようと、後日、その老人ホームに、おじいさんを訪ねてみることにした二人は、希望を胸に、老人ホームのおじいさんの部屋をノックする。

ところが、おじいさんは、寝たきりで、会話も困難な様子。認知症の症状もではじめている、というスタッフの説明に、けっきょく話を切り出すことすらできなかったのだった。

意気消沈して、おじいさんの部屋を後にした二人。

万事休すかと思いきや、あいさつにたちよったホームの受付で、じつはおじいさんには妹がいて、ホームの目の前のアパートで暮らしていることが判明する。

その足で、そのアパートのベルを鳴らし、妹さんに事情を話すことができたのだ。

それなのに、

「家を売るつもりは、1ミリもない」

ぴしゃり、とドアが閉じられるまで、30秒もなかったとおもう、と、ジャッキーは当時を思い出して笑った。

とまぁ、このあとも「デッドエンドに行き止まっては、ふたたび扉がひらく」をくり返すこと半年。

この日、ジャッキーが語ってくれたのは、夏の終わりにみつけた家を、翌年の春に手にいれるまでの、二人が歩んだながいながい紆余曲折の物語なのだった。

「もういちど、同じことをしろと言われても、無理かもね」

けれどもこの紆余曲折の半年は、二人にとって、自分たちの心にじっくり耳をかたむける、かけがえのない時間になったようなのである。

Road to Nowhere - B&W

もともと何でもよく話し合うほうだと思うけど、

「あんなに会話を重ねたことは、いままでなかったわね」

とジャッキーは、当時をふり返る。

 私たちらしい。

 らしくない。

なんどもなんども、自問するじかんをもてた、とも。

  • どんなふうに、暮らしたいか?
  • 大切にしたいことは、何?
  • 何が心地よくて、嫌なものは何?
  • そもそも、私らしいって何なのか? 

自分のことは自分がいちばんわかっていないのかもしれない。

あらためてそう思うのは、わたし自身が今、ただ漠然とこんなふうに問われたとしても、漠然とした答しかでてこないからだ。

この田舎の家、という選択肢を前にしてはじめて、二人にとってそれは、にわかに血のかよった「生きた問いかけ」になったのだとおもう。

選択肢を前に、自問し、考え、心の声に耳をすました。

会話をかさね、そして決断した。

この家をめぐる二人の話を聞いていて、なんといってもわたしが心うごかされたのは、二人がそのプロセスから得たものの大きさだった。

まわりに流されず、人まかせにせず、自分の頭で考えて、ひとつひとつ道を選びとる。

そのプロセスをとおして、ひとは自分を知ることができる。

そのプロセスの前に、道が拓け、

そのプロセスの後に、そのひとの人生ができる。

そのプロセスをなおざりにせず、真摯に向き合ってきた二人からは、「だれのものでもないわが道」をゆく満ち足りた気配が、にじみでているのだった。

それはもう、おおげさではなく、本当に。

体にぴったり合った服を、身につけているような、足にカンペキにフィットした靴を、履いているような。

そんな心地よさが、二人の顔にはあらわれている。

二人と話しているとこちらまで、すがすがしい気持ちになってしまうのだった。

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まるで一本の映画を見終わったあとのような充実感を胸に、わたしたちが散歩からもどってみると、留守番をしていたジルが庭の片すみで、火をおこしているところだった。

「さぁ、都会にもどる前に、腹ごしらえだよ」

そういって、BBQの鉄板にうすく油をひく。

冷蔵庫に材料をとりにいったジャッキーが、もどってきて肉屋の包みを、手の上でひろげてみせる。

「ビーフ?チキン?それともアンドゥイエット?」

そういって、それを鉄板の上に手早くならべた。

アンドゥイエット(L’andouillette)というのは、豚や仔牛の内臓を腸詰にした、この地方名産のソーセージである。

Andouillette at Le Petít Bístrot, Aix-en-Provence, France

切り口をみると、原型をとどめた内臓がちょっとグロテスクだけど、名産ときくと試してみたい気もする。

レモン汁を絞りながら、ていねいにグリルされるチキンも捨てがたいし、こんがり焼き目の美しいビーフにもそそられる。

うぅむ、悩ましい。。

いっしゅんの静寂。

どうやら決めかねているのは、わたしだけではないようだった。

聞こえてくるのは、ジュウジュウと、肉汁が鉄板を焦がす音のみである。

ふいに、

 MoooooooW!

腹の底からしぼりだされたような牛の鳴き声が、その静寂をやぶった。

おどろいてふりむくと、一頭の牛が立ち止まって、ジーっとこちらを睨みつけているところだった。

 MoooooooW!

目があうと、念を押すように、もうひと鳴き。

そのタイミングがあんまり絶妙すぎて、それはまるでこう言っているように聞こえたのだった。

 Nooo Beef!  Eaaat Chicken!

まったく人生は、選択の連続である。

世間からはさまざまな意見が聞こえてくる。

わが道をゆくのも、楽ではない。

(おわり)