朝ごはんのあと、でかけた散歩の途中、「売り家」の札がかかった家をみつけた。
ひとの気配が消えて久しいのだろう。
そこだけ時間が止まってしまったような、しずかな空気を全身にまとって、その家はひっそりと佇んでいた。
「私たちの家も、ちょうどこの辺りをサイクリングしているときに、ぐうぜん見つけたのよ」
とジャッキー。
「ただし、”売り家”の看板がでていたワケじゃないから、話は長くなるんだけど」
そう前置きして、語ってくれたのは、山あり、谷あり、人情ありの、映画が一本撮れてしまいそうにドラマティックな物語だった。
「すてきな家だなってね。遠目にみた瞬間ピンときたの」
自転車を降りて、家のまわりをぐるりと歩いてみた。
窓にカーテンこそ掛かっているけれど、人が生活している気配がぜんぜんなくて、空き家のようだった。
そう、ちょうど、この家のように。
けれども、売り家の看板は、見当たらない。
「いくら気に入っても、売りに出ていないのでは、しかたがないわよね」
あきらめて自転車をとめた門柱までもどってみると、郵便物があふれたポストが目にはいった。
「ほんとうに、はみだしていたのが、見えちゃったのよ」
けっして、手をつっこんでひっぱりだしたのではない、と念をおしてから、ジャッキーは続けた。
はみだした郵便物の宛先から、ぐうぜんその家の主の名前を知ることになった二人。
恋におちたような心持ちで、ぼーっと自転車をおして歩いていると、むこうから村人のおばさんがやってきた。
二人にとって幸運だったのは、まず、人里はなれたこの村で人間に遭遇できたこと、そしてこのおばさんというのが、村でも1、2を争うおしゃべりだったことだろう。
このおばさんのおかげで、あの家の主が、身寄りのないおじいさんで、いまは老人ホームで暮らしていることがわかったのだ。
ともあれ話だけでもしてみようと、後日、その老人ホームに、おじいさんを訪ねてみることにした二人は、希望を胸に、老人ホームのおじいさんの部屋をノックする。
ところが、おじいさんは、寝たきりで、会話も困難な様子。認知症の症状もではじめている、というスタッフの説明に、けっきょく話を切り出すことすらできなかったのだった。
意気消沈して、おじいさんの部屋を後にした二人。
万事休すかと思いきや、あいさつにたちよったホームの受付で、じつはおじいさんには妹がいて、ホームの目の前のアパートで暮らしていることが判明する。
その足で、そのアパートのベルを鳴らし、妹さんに事情を話すことができたのだ。
それなのに、
「家を売るつもりは、1ミリもない」
ぴしゃり、とドアが閉じられるまで、30秒もなかったとおもう、と、ジャッキーは当時を思い出して笑った。
とまぁ、このあとも「デッドエンドに行き止まっては、ふたたび扉がひらく」をくり返すこと半年。
この日、ジャッキーが語ってくれたのは、夏の終わりにみつけた家を、翌年の春に手にいれるまでの、二人が歩んだながいながい紆余曲折の物語なのだった。
「もういちど、同じことをしろと言われても、無理かもね」
けれどもこの紆余曲折の半年は、二人にとって、自分たちの心にじっくり耳をかたむける、かけがえのない時間になったようなのである。
もともと何でもよく話し合うほうだと思うけど、
「あんなに会話を重ねたことは、いままでなかったわね」
とジャッキーは、当時をふり返る。
私たちらしい。
らしくない。
なんどもなんども、自問するじかんをもてた、とも。
- どんなふうに、暮らしたいか?
- 大切にしたいことは、何?
- 何が心地よくて、嫌なものは何?
- そもそも、私らしいって何なのか?
自分のことは自分がいちばんわかっていないのかもしれない。
あらためてそう思うのは、わたし自身が今、ただ漠然とこんなふうに問われたとしても、漠然とした答しかでてこないからだ。
この田舎の家、という選択肢を前にしてはじめて、二人にとってそれは、にわかに血のかよった「生きた問いかけ」になったのだとおもう。
選択肢を前に、自問し、考え、心の声に耳をすました。
会話をかさね、そして決断した。
この家をめぐる二人の話を聞いていて、なんといってもわたしが心うごかされたのは、二人がそのプロセスから得たものの大きさだった。
まわりに流されず、人まかせにせず、自分の頭で考えて、ひとつひとつ道を選びとる。
そのプロセスをとおして、ひとは自分を知ることができる。
そのプロセスの前に、道が拓け、
そのプロセスの後に、そのひとの人生ができる。
そのプロセスをなおざりにせず、真摯に向き合ってきた二人からは、「だれのものでもないわが道」をゆく満ち足りた気配が、にじみでているのだった。
それはもう、おおげさではなく、本当に。
体にぴったり合った服を、身につけているような、足にカンペキにフィットした靴を、履いているような。
そんな心地よさが、二人の顔にはあらわれている。
二人と話しているとこちらまで、すがすがしい気持ちになってしまうのだった。
まるで一本の映画を見終わったあとのような充実感を胸に、わたしたちが散歩からもどってみると、留守番をしていたジルが庭の片すみで、火をおこしているところだった。
「さぁ、都会にもどる前に、腹ごしらえだよ」
そういって、BBQの鉄板にうすく油をひく。
冷蔵庫に材料をとりにいったジャッキーが、もどってきて肉屋の包みを、手の上でひろげてみせる。
「ビーフ?チキン?それともアンドゥイエット?」
そういって、それを鉄板の上に手早くならべた。
アンドゥイエット(L’andouillette)というのは、豚や仔牛の内臓を腸詰にした、この地方名産のソーセージである。
切り口をみると、原型をとどめた内臓がちょっとグロテスクだけど、名産ときくと試してみたい気もする。
レモン汁を絞りながら、ていねいにグリルされるチキンも捨てがたいし、こんがり焼き目の美しいビーフにもそそられる。
うぅむ、悩ましい。。
いっしゅんの静寂。
どうやら決めかねているのは、わたしだけではないようだった。
聞こえてくるのは、ジュウジュウと、肉汁が鉄板を焦がす音のみである。
ふいに、
MoooooooW!
腹の底からしぼりだされたような牛の鳴き声が、その静寂をやぶった。
おどろいてふりむくと、一頭の牛が立ち止まって、ジーっとこちらを睨みつけているところだった。
MoooooooW!
目があうと、念を押すように、もうひと鳴き。
そのタイミングがあんまり絶妙すぎて、それはまるでこう言っているように聞こえたのだった。
Nooo Beef! Eaaat Chicken!
まったく人生は、選択の連続である。
世間からはさまざまな意見が聞こえてくる。
わが道をゆくのも、楽ではない。
(おわり)