一滴の雨も降らない、かんかん照りが二週間ほどつづき、湖の花火大会が終わるころになると、こんどは夕立ちとかみなりが毎夕やってくる。
雨は、ひと夏ぶんの熱をはらんだ地面や、屋根や、木々や、空気や、人々の日焼けした肌に降り注ぐ。
一日、また一日と、夕立ちは街全体を冷やしていく。
そして、いきなりすとんと秋になる。
ジュネーヴのみじかい夏の幕切れは、いつもいさぎよく、きっぱりやってくる。
晩ごはん用のローズマリーを摘みに、ベランダにでてみると、西から生温かい風が吹きはじめたところだった。
空には鉛色の重たい雲がみるみるひろがって、あたりが暗くなってゆく。
傘はもってるはずだけど‥
朝、車をおいて歩いて出勤した夫が、ちょうど家にむかっているころだった。
チカチカッ。
蛍光灯みたいに、空がいっしゅん点滅する。
しばらくおくれて、遠くのほうで鳴ったかみなりが、窓ガラスをふるわせた。
ぽつん、そして、ぽつん。
まず一滴、二滴と、ベランダのコンクリートにシミをつくり、やがてそれはいっせいに落ちてくる。
幾千の雨粒が木々の葉っぱを打つ音で、つけていたテレビの音がかき消されるほどだった。
「ただいま」
玄関で声がして、ずぶ濡れの夫が帰ってきた。
手には、バス通りのケーキ屋さんのオレンジの箱が、口をきゅっと絞ったビニール袋にぴっちりくるまれてぶらさがっていて、ポタポタと床に水滴を落としていた。
あわててバスタオルを手渡してから、わたしはフライパンを火にかけ、脂ののったサバを、ニンニクとローズマリーでソテーする。
それからグリルで、エリンギをさいて、パプリカと素焼きにする。
ふと窓のそとに目をやると、雨はすっかりあがっていた。
さっきのざぁざぁ降りがうそのように静まりかえって、聞こえてくるのは、テレビの音と、ぱちぱちとサバの焼けるフライパンの音だけ。
雨上がりの森のにおいに、ローズマリーがまじって、鼻の奥がツンとする。
ふいに、子供のころ好きだった本の、しあわせな「帰宅」の場面が思いだされた。
- 作者: アリソン・アトリー,中川宗弥,石井桃子
- 出版社/メーカー: 童心社
- 発売日: 1967/03/30
- メディア: 単行本
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それは「チムラビットのぼうけん」という本で、好奇心旺盛な子ウサギのチムラビットが、野原に遊びにでかけるのだけど、カミナリや、ヒョウや、犬や、いばらの道で、さんざんこわいおもいをして、命からがら家に逃げ帰ってくるシーンだ。
チムラビットが、ぶるぶるしながら家に帰ると、そこにはお母さんがいて、たしかパンケーキを焼いている。
そしてお母さんは、だいじょうぶよ、とこわがるチムラビットを、やさしくだきしめてくれるのだ。
やさしいお母さんが、待っている家!
あたたかくて、安全で、しかもパンケーキの甘い香りのただよう家!
カギっ子だったわたしにとって、それはちょっとうらやましくもあり、また、「パンケーキ」なる未知のお菓子にそそられる部分もあり。
心からほっとするチムラビットといっしょに、この「帰宅」のしあわせを味わいたくて、なんどもなんども繰り返し読んだものだった。
考えてみれば、忘れ去られていくものごとが圧倒的多数であるなかで、こんなふうに何十年たっても自分のなかに残っているモノがある、ということは、摩訶不思議だ。
と同時に、なんてステキなことだろうとおもう。
本だったり、映画だったり、音楽だったり、絵だったり、味だったり、音だったり、匂いだったり、人との出会いだったり。
それはもういろんなかたちをしていて、ふだんはすっかり忘れているのだけど、スクラップブックみたいに、意識のどこかにペタペタと貼りつけられていて、ときどきふっとした瞬間に顔をだすのだ。
とくべつ何かに役立つわけではないけれども、それはほんのすこしこころ豊かにしてくれる。
自分を見失いそうになっているときにも、それはそっと寄り添ってくれる。
いままで積み重ねてきたことの重みを、それは教えてくれる。
そして、どんなときもそこにたちかえれば大丈夫、とおもえる「拠りどころ」に、そのスクラップブックはある。
そこに帰れば大丈夫、とおもえる場所があるということ。
それは、なんと心強いことだろう!
そとで散々な目にあって、家に帰ると、サバの焼ける匂いがして、やさしい妻が待っていて、、
と、わが夫が心からホッとしたかどうかは、さだかではない。
ケーキ屋さんのオレンジの箱をあけると、ミルフィーユがふたつ、仲良くならんでいた。
もうすぐ、読書の秋がやってくる。