「上ばっかりみて歩いて、穴に落っこちないように」
わたしがニューヨークに行く、というと、母はそういった。
そういわれて、10才ぐらいのとき、母と妹と三人で、はとバスに乗ったことを思い出した。
あれは、新宿の副都心、だったとおもう。
ビルをみあげては、姉妹がかわるがわる方言丸出しで、
つぎはどこへいくのだとか、
このビルは何のビルなのだとか、
大声で聞くものだから、たまりかねた母が一喝したのだ。
「おのぼりさんって、バレちゃうでしょう!」
いま思えば、はとバスに乗っている時点で、おのぼりさんも何もないものである。
が、ある意味、母は正しい。
ニューヨークで、上をみあげて歩いているのは、みんなおのぼりさんである。
そして、あのあと東京で、妹は上野動物園のキリンに気を取られて、みずたまりで尻もちをつき、東京にいくために買ってもらった新品のピンクのスカートのお尻に、おおきなシミをつくることになったのだ。
そのような母のありがたい忠告にもかかわらず、わたしは、天にむかってそそりたつ高層コンドミニアムを、人目もはばからず見あげていた。
それもただ見上げるばかりでなく、口をあんぐり開けて。
わたしは、ニューヨークでくらしはじめたばかりの友だちが住む、コンドミニアムを訪れていた。
彼女は、そのちいさな体のどこに、そのガッツを秘めているのか?
いつだって、首をひねらざるをえないほど、どんなに困難な状況にあってもとにかく「前進するひと」だ。
「この部屋の、訪問者第一号よ」
といって、彼女は景気よくワインをあけてくれた。
この部屋には、二日前に引っ越してきたばかり。
前の住人が残していった家具を、ほとんどそのまま使っている、というその部屋には、たしかにまだ、なんとなくよそよそしい気配が、ただよっているようだった。
窓のそとには、林立する高層ビルと、イーストリバー。
グラスに注いでくれたワインを、口に運びながらわたしは、これから始まる彼女のあたらしい暮らしに思いをはせた。
ニューヨーク。
上へ、上へ。
競い合い、押し合いへしあいするように、のびる高層ビル。
それを見あげて歩く、おのぼりさん。
そして、そこに住む住人たちは、上を上をめざしている。
「上ばっかりみて歩いて、穴に落っこちないように」
あらぬところで、ありがたい母の忠告が思いだされたのは、やはりニューヨークで働き始めたばかりのMくんに、会ったばかりだったからかもしれない。
Mくんは、食品関係の商社で責任あるポジションを任されながら、経営コンサルティングやカフェのサイドビジネスも手がける、親戚いちのイケメン(注:わたしの個人的ランキングによる)だ。
アジア、アフリカ、ヨーロッパ、そしてアメリカ。
出会ってから数年にしかならないというのに、会うたびにちがう場所ではたらいているMくん。
会うたびに、何かあたらしいことに挑戦しているMくん。
ついでに、会うたび、ガールフレンドが変わっているMくん。
そんなに上ばっかり向いていて、だいじょうぶかな?
タコスと、ナチョスと、マルガリータで、おなかいっぱいになった私たちとMくんが、ダウンタウンのメキシコ料理店からでてきたとき、
カンペキすぎるMくんのことが、なんだかちょっと心配になったのだ。
それは、日本で働いていたとき、がんばりすぎてぷっつり糸がきれて、精神をやんでしまったり、健康を損なってしまった同僚を数多くみてきたからかもしれないし、単なる老婆心なのかもしれないけれど。
わたしのそんな心配をよそに、当のMくんは、水をえた魚のように身も軽々と、摩天楼の夜に消えようとしていた。
そのときだった。
「お客さぁん!」
わたしたちは、大きな声で呼び止められた。
ふりかえると横断歩道のむこうで、黒光りしたブリーフケースを頭上に高くかかげ、大きくふってみせながら、メキシコ料理店の店員がさけんでいた。
「お客さぁん!わすれもの!」
Mくんが、身軽にみえたのも当然だ。
それは、Mくんのかばんだった。
貴重品も、家のカギも、機密データのつまったパソコンも、いっさいがっさいがつまったかばんをまるごと、忘れてきたのだから。
「Mのやつ、だいじょうぶかな」
この先、この大都会でやっていけるのだろうか、と夫はまじめに心配していた。
Mくんは、だいじょうぶだ。
ふしぎだけれど、そのとき、私ははじめて心から安心したのだった。
Mくんも、彼女も。
きっと、こちらが心配するまでもなく、気を抜く術を心得ているのだろう。
彼女の新しい部屋の窓辺には、チューリップが、そしてベッドサイドにはキャンドルがおかれている。
まだよそよそしい部屋のなかで、そこだけポッと彼女の新しい暮らしが芽吹いているようだった。
上を向いて歩こう♪
ときには、よそ見しながら、寄り道しながら。
ボケっとしながら、立ち止まりながら、ゆっくりと。
*数年前、祇園でかわいいお店のディスプレイに気をとられて歩いていて、電信柱に激突したことがあります。一部始終をみていた夫は「マンガでしかみたことのなかった光景」といたく感心しながら、こういいました。「前を向いて歩こう」と。