ごく親しい人たちとの集まりは別として、いわゆる社交というものが、あまり得意ではない。
が、得意だろうが苦手だろうが、年末年始の社交シーズンとなると、重い腰を上げねばならぬのが大人、というものである。
先日も、でかけていった集まりで、六年ぶりに知り合いの息子さんに再会したのだが、すっかり大人になってしまっていて、がっかりした。
スポーツとか、政治とか、経済とか、歴史とかについて、いっぱしの大人みたいに話せるよう、りっぱに成長をとげていたからだ。
六年前は中一だったのが、いまや経済学専攻の大学生なのだから、当然といえば当然の変化なのであって、本来がっかりすることではないのだけれども。
そんなことは重々承知の上で、
「すっかり大人になっちゃって」
わたしは、心底がっかりした。
中一のときには、裸まつりの話とか、アニメのヒーローの話とか、わたしの恰好の話し相手になってくれたのに。
おもうに、社交があまり好きになれないのは、社交の場でくりひろげられるこの「大人」の会話が、苦手だからなのだ。
つまり、スポーツとか、政治とか、経済とか、歴史とか。
この手の話題について、勉強不足で十分にわたりあえる素養がないことは、まず反省しなければならない。
しかしいっぽうで、純粋にこの手の話題がおもしろいと思えない、という問題は、努力してもなおらないものであるからして厄介だ。
そんなこというなら、
「どんな話題ならおもしろいわけ?」
ちゃんとりっぱな「大人」の友人たちは、あきれ顔できく。
「うまく一言ではいえないけど」
わたしは、最近、おもしろいとおもった話題を、必死でかきあつめてみた。
たとえば、国連本部の敷地内に群生している行者ニンニクを、警備員に怪しまれないよう収穫する話とか。
野生動物専門のプロの写真家が、じつは奥さんの写真を撮るのは苦手な話とか。
あるいは、日本で大人気、でもヨーロッパで大量に売れ残っていた「う◯こ色のGショック」で一攫千金だった話とか。
はたまた、、
と、つづけるわたしに、友人たちのあきれ顔は、よりいっそう深まるばかりなのだった。
でも、いまこれを書いていて思ったのだけど、ようはシンプルに「その人ならでは」の話がおもしろいとおもう、ただそれだけだ。
せっかくその人が目の前にいるのだから、その人の話がしたい。
つまりCNNや、BBCで聞けるような話ではなく。
年末年始に読みかえしていた「星の王子さま」にこんな一節があった。
少しは頭がすっきりしていそうなおとなに出会うと、ぼくはその人を試すつもりで、いつも持ち歩いていた僕の絵第一号を見せた。ほんとうに話がわかる人かどうか、知りたかったのだ。でもみんな、いつもこう答えるのだった。「帽子ですね」と。こうなるともう大蛇ボアの話も、原生林の話も、星の話もしない。こっちが話を合わせてあげるしかない。トランプのブリッジとか、ゴルフとか、政治とか、ネクタイの話をする。すると相手のおとなは、こんなにも話のわかる人に出会ったことに、すっかり満足するのだった。
(「星の王子さま」サン=テグジュペリ, 角川文庫より)
社交なんて得意じゃなくてもいいのだ。
(やや強引だけど)
それよりもわたしは、いつまでも大蛇ボアの話や、星の話ができる大人でありたいな、とおもうのだ。
ところで、その集まりの帰りがけ。
「お家に帰ってから、開けてみて!」
インドから休暇をすごしにきている友人から、紙包みを渡された。
紅茶とか、インセンスとか、石鹸とか、ビーズとか。
いつも、いつも、かわいいお土産をくれる彼女。
家にかえって、つつみを開けてみた。
ぴょんとでっぱったヒモを引っ張りあげてみると、チリンチリン!と音をたて、元気よく鳥が五羽連なって飛びだしたので、おもわず声をあげてしまった。
ヒモに吊られた、赤、黄、青、緑、茶色の五羽の鳥のそれぞれに、ベルがぶらさがり、揺れるたびに、すきとおった音色をかなでる。
インドのハンギングベルだった。
目の高さにぶらさげてみると、メリーゴーランドみたいに、ゆっくりまわりながら、順番にキョロっとこちらをみつめる鳥たち。
ゆるっとした表情で、みつめられるとほっこりやさしい気持ちになる。
ちょっと迷って、朝日が射しこむローヌ川沿いのベランダに吊るすことにきめた。
ここからだと、ローヌ川を渡っていく渡り鳥がよくみえるのだ。
渡り鳥といっしょに、想像力の鳥たちがどこまでもはばたいていけるよう。
新しい一年のはじまりに、すてきな贈りものをいただいたのだった。
*この年末年始は、大学生のころ児童文学の講義で読んだ本を、まとめて読みかえしました。なつかしい、ところどころ線がひっぱってある本。ミヒャエル・エンデに、赤毛のアン、人魚姫。。。大人だって、いや、大人だからこそ想像力って大事です。あらためて、思います。