6月もなかばをすぎると、スイスの短い夏のはじまりを告げる、ちいさな嵐がやってくる。それは、あっという間にやってきて、あっという間に去ってしまうのだけど、ちいさいからといってあなどれないパワフルさで、わたしたちをおどろかせる。
はじまりは、こうだ。
朝から一点のくもりもなく、カラッと晴れていた空に、みるみる灰色の雨雲がたちこめたかとおもえば、へんな湿った風がピューピューふきはじめる。
チカチカっと稲光を合図に、やがて風はモウレツないきおいで、雨を、ひょうを、ちぎれた木の枝を、窓にたたきつける。
その狂暴さといったら!
窓のそとは、まるで洗浄中の食洗機のようなありさまで、屋外に駐車してある車や、スチール製の雨戸が、ボコボコに凹んでしまうほど。
嵐のあとで歩いてみると、路上にバット大の枝がいくつも落ちていて、こんなものが宙を飛んでいたのかとおもうと、ぞっとしてしまう。
わたしも日本人だから、台風にはなれているはずなのだけど、台風のかぜが一定方向にふくのにたいし、この嵐は縦横無尽、三百六十度にふきすさぶ。
なんというか台風とはまたべつの種類のすごさに、足がすくんでしまうのだ。
かつて日本では、台風のため電車がとまっても、暴風雨のなか傘をおちょこにしながら、線路づたいに歩いて出勤するのが「やる気」だと評価された時代があったけれど、スイスのこの嵐でそれをやったら負傷は確実だとおもう。
もっとも、やる気をみせるために嵐のなか出勤しようとするスイス人が、いったい何人いるかと問われれば、自信をもって「ひとりもいない」と答えられるのだが。
そんな嵐のあとの、土曜の午後のこと。
わたしは、友だちの誕生日会に顔をだした。
すこし遅れて到着してみると、部屋のかたすみにみんなで仲よく顔をよせあって、なにやら人の輪ができている。
「ロマンティックねぇ」
ひとりがいうと、全員がうっとりうなずく。
なにかとおもえば、この日誕生日をむかえた友だちが、だんなさまからもらったというプレゼントの写真を、スマホの画面でおひろめしているのだった。
ところで諸外国の多くにおいて、恋人や奥さんへの贈りものは「ロマンティックなもの」でなくてはならない、というのがひとびとの共通認識となっているようである。
フランス語の学校にかよっていたころ、クラスで「直近の誕生日のプレゼントに何をもらったか?」という話題になったことがあった。
クラスメイトは、結婚や駐在でジュネーブにやってきたばかりの主婦が大半で、スペイン、イタリア、ロシア、シリア、キューバ、コロンビア、チリ、南アフリカ、北朝鮮、とインターナショナルな構成。
それぞれ、花束やら、チョコレートやら、ジュエリーやら、自身がもらったプレゼントを順番にいっていくなかで、「ダイソンのそうじき」をもらったというのは、わたしのほかにもうひとりいた日本人のクラスメイトである。
これが、物議をかもした。
「まるで”おそうじおばさん”あつかいね」
「プレゼントがそうじきなんて、幻滅だわ」
「そうじき?そこにLOVEはあるのかしら?」
インターナショナルチーム総がかりで、大ブーイングがはじまった。
「ただのそうじきじゃなくて、ダイソンだから」
などという、なまぬるい日本代表チームのディフェンスなど、まったく歯がたたぬ攻撃力でもって、インターナショナルチームが圧倒的勝利をおさめたのだった。
ちなみにその年、わたしがもらった誕生日プレゼントは、パソコンのディスプレイ(DELLのちょっと高いやつ)だったが、不毛な争いを避けるため、花とかチョコとか、無難なものをもらったことにしてごまかしたのを覚えている。
さて。
話を元にもどすと、誕生日をむかえた彼女である。
目にした全員を「ロマンティックねぇ〜」とうならせるほど、ロマンティックな贈りものとは、なかなかのシロモノであるにちがいない。
いったい、何をもらったのだろう?
興味しんしんで、彼女のスマホをのぞきこんだわたしがそこに見出したのは、日本の石灯籠である。
歴史をさかのぼっても、石灯籠を誕生日にプレゼントされた日本人が、はたして何人存在するだろうか?
その斬新な発想に、ユニークさに、すっかり面食らってしまったわたしは、おもわずそうつぶやいた。
「本場の日本人でもめったにもらえないものを、もらえたあなた(スイス人)はラッキーね!」
だれかが、わたしのつぶやきをいい意味に受けとってそういうと、全員が大きくうなずいた。
「夏の夜更けとか雪の日に、キャンドル灯して庭をながめたらステキでしょう?」
いまはまだピカピカに新しいけれど、日本の古い社寺にあるそれのように、苔むして味わい深く変化していくのを楽しみにしている、と彼女はしあわせそうに微笑んだ。
いまよりちょっと年を重ねた旦那さまと彼女が、苔むした石灯籠にキャンドルを灯して庭ですごすようすが、目に浮かぶようだった。
カップルの数だけ、贈りもののかたちがある。
ダイソンだって、DELLだって、花だって、ジュエリーだって、石灯籠だって。
目をむけるべきは、何をもらったかじゃない。
大切なのは、その背後にある気持ちだ。
そこにカップルなりのストーリーがあれば、どんな贈りものだって「ロマンティック」なのだ。
嵐のあとに。
ロマンティックな気分をおすそわけしてもらったわたしは、その気分にしばらくひたっていたくて、バスには乗らず家までのんびり歩いて帰ることにした。
こんどの誕生日には、iPadをリクエストしようとおもっていたのだが、ほんとうにそれでいいのか?
自問自答しながら。
*物欲に毒されて、贈りものの背後にある気持ちに目をむけることを、すっかり忘れているきょうこのごろ。。
*ベランダに降り注いだ、小石大のひょう。
*ローズマリーの苗も、根こそぎふきとばされるありさま。