どうして本を読まないといけないの?
夏休みがはじまる前、10歳になる甥っ子が不服そうに口をとがらせていた。
マンガだって、テレビだって、ゲームだっておんなじだよ。
どうして本じゃなきゃいけないの?
そう問いつめられた妹は、困りはてていた。
「ためになるから、じゃ10歳男子は納得しないでしょ?」
わたしは妹に同情してしまった。
おもしろいからじゃ説得力に欠けるし、頭がよくなるからじゃ雑すぎる。
想像力が養えるから、考える力がつくから、読む力はすべての基礎になるから、世界が広がるから、表現力が身につくから、知識を吸収できるから。
もっともらしい理由は、つぎつぎ思いつくのだけれど、10歳男子の心を打つようなこたえは、たしかになかなかでてこない。
そもそも、ひとが本を読むほんとうの理由は、そんな理屈からは百万光年はなれたところにあるような気もするし。
しまいには、じぶんでもよくわからなくなってしまったのだ。
どうして本を読まないといけないんだろう?
その答をみつけたのは、アッペンツェルのマーチンとジュディを訪ねた翌日のことだった。
この日わたしたちは、車で15分ほどのところにある図書館に連れていってもらったのだが、この図書館、その歴史、その建物、その内部装飾、その蔵書、どれをとってもただの図書館ではない。
どれくらいすごいかというと、世界遺産に登録されている。
そういったら、そのすごさが少しは伝わるだろうかとおもったのだけれど、それでもまだ伝えきれないくらいすごい。
ガルスさんというひとりの修道士が、ここにひとつのちいさな僧坊をたてたのは、さかのぼること612年のこと。
ちいさな僧坊は時をへて大修道院となり、9世紀になるころには、付属の学校と図書館がヨーロッパ文化の中核をになうようになった。
これが、このザンクトガレン修道院図書館のはじまりである。
古いものでは千年以上前のものもあるという古文書を17万冊も所蔵しているので、いまでは世界でもっとも重要な古文書図書館にかぞえられている。
それだけではない。
18世紀に建てられた”バロックホール”とよばれる図書館ホールは、世界でもっとも美しい図書館のひとつといわれているのだ。
*修道士のガルスさんとガルスさんのおかげで改心した熊。
なるほど。
受付でもらったパンフレットをぶつぶつ読みあげながら、わたしは地味な廊下をすすんだ。
あんまり地味すぎて、順路をまちがったんじゃないかと不安になりかけたそのとき、つきあたりの扉からガイドの女性がでてきて「世にも美しい図書館の保護のために、特別なスリッパを靴の上からはくように」と床をゆびさした。
そこには冗談みたいに、巨大なスリッパがいくつもならんでいた。
スリッパをはくとみんながみんな、ミッキーマウスみたいな歩き方になってしまうのがおかしくて、すっかり油断していたからだろうか?
わたしは仄暗い小さな入り口からホールに足を踏みいれたとたん、足がすくんでうごけなくなってしまった。
松とクルミ材をおおきな星の形にはめこんだ象嵌細工の床。
あめ色に艶めく柱のあいだに、古文書がびっしりならぶ壁一面の書棚。
なみうつ象牙色の漆喰にふちどられた天井画は、頭上に別世界への入り口があるように、わたしたちを見下ろしている。
時空を超えて、異次元にまぎれこんでしまったような、小宇宙にほうりこまれたような、不思議な感覚におそわれて身動きがとれなくなってしまったのだ。
ひとごこちついてからゆっくり歩いてみると、書棚を区切る柱のひとつひとつにひとりずつ、天使がとまっていることに気がついた。
よくよくみると、みんなおなじではない。
手に持っているものがちがうのだ。
本、ビーカー、楽器、ハンマー‥‥
手にしているのはそれぞれ職業を象徴するものだ、とガイドの女性がおしえてくれた。
詩人、医者、植物学者、大工、薬剤師、鐘鋳造師、銃技師、金細工師、花屋、歌手、画家、庭師、作曲家、商人、彫刻家、地理学者、建築家、天文学者、数学者、オルガン技師。
完全に一致するわけではないのだけど、とことわりをいれながら、「これらはこの修道院図書館がアート、サイエンス、人文科学、、とじつに幅広い分野に興味をもち、その文献収集につとめていたことをあらわしているのです」とガイドの女性はちょっと誇らしげに説明してくれた。
あらためて見あげてみると二十人の天使たちは「修道院の図書館だから、宗教関係の本ばかりだとおもったら大まちがいだよ」そうわたしたちに教えてくれているようだった。
見たい、知りたい、伝えたい、理解したい、学びたい。
手書きでしか本を作れなかった時代、ひとびとの知的好奇心はあらゆる分野を超えて、とどまることを知らなかったにちがいない。
この図書館には、そんなひとびとの熱が漂いつづけているような、濃密な空気が流れているようだった。
入り口で足がすくんでしまったのは、ひょっとしたらそのエネルギーのせいだったのかもしれない。
そうおもった。
ガイドツアーがおわり、わたしたちが図書館を出てスリッパをぬいでいると、ガイドをしてくれた女性がとおりがかった。
「中世では、知性がないことは、病気だと考えられていたのですよ」
だれにともなくそうつぶやいて、彼女はわたしたちの背後をゆびさした。
ふりむいてみると図書館の入り口には、こんなふうにギリシア語でかかれたプレートがかかげられていた。
”魂の療養所”
体が健康であるために栄養が必要なように、魂が健康であるためには知性が必要なのだと、中世のひとは考えていたらしい。
「出たところにあるからみのがされがちなんですけど、いい言葉だとおもいませんか?」
ガイドの女性は、ほほえんだ。
そのとき、わたしの脳裏によぎったのは、他ならぬあの甥っ子のふくれっ面だった。
魂だっておなかがすくんだよ。
栄養がたりないと、やせ細っちゃうんだよ。
本は、魂の食べ物なんだよ。
ここに連れてきたら、理屈なんていらないのかもしれないな、とわたしはおもう。
どうして本を読むのか。
この世にも美しい図書館が、教えてくれるはずだから。
*売店で記念に買ったクリスマスカード。図書館内は写真NGなので、ガイドブックとポストカードをもちかえりました。
*ザンクトガレンは、出窓の装飾が美しい建物がならぶかわいい街。