くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

ヘッツェマニの朝:のらりくらりコロンビアの休日(1)

コロンビアのカリブ海に面した街、カルタヘナ。

古い街並みがのこる街区・ヘッツェマニにあるホテルの部屋は、朝になっても暗いままだった。

というのもこの部屋、窓はぜんぶ中庭に面しているうえ、開閉できない木製のシェードがはまっている。

暑さをしのぐため、日射しがはいってこないつくりになっているのだ。

外ではとっくに日が昇り、街がうごきだしている。

バイクのエンジン、クラクションの音、耳慣れない鳥のなき声、ホテルのスタッフが階段を上り下りする足音、カチャカチャとふれあう食器の音。

わたしは、その「音」で目を覚ました。

CASA(家)と呼ばれる、古い邸宅を改装したホテルは、ドアと壁のあいだにすきまがあって、そこから音がながれこんでくる。

ベッドのなかでじっと耳をすましていると、外のようすが気になって、いてもたってもいられなくなった。

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「朝食は、毎朝7時から10時まで。屋上にご用意します」

昨夜、チェックインしたとき、フロント係のオマル君がいっていたのを思いだす。

中庭に面した階段をのぼっていくと、屋上にはちいさなプールがあり、プールサイドにテーブルがひとつだけ用意されていた。

どうやら、ゆうべの泊まり客はわたしたちだけだったらしい。

わたしたちに気づくと、おしゃべりを止め、

「ブエノス!」

ちょっとはにかんだ笑顔で、バーカウンターからあいさつを投げてよこしたのは、調理担当の男性とサービス担当の女の子だ。

ふたりとも、みごとにスペイン語しか話さない。

空港に着いたときから、うすうす感じていたことではあったけれど、入国審査官からタクシーの運転手、レストランの店員にいたるまで、まず英語がつうじない。

英語がつうじたのは、わずかにホテルのフロントのオマル君のみ。

しかも、つうじないといえば、数字ですらつうじないという、筋金入りなのだ。

でも、まてよ、とわたしはおもう。

それがいったいなんだというのだろう?

そもそもなんでもかんでも、世界中のどこでも英語さえあれば、という考え方はちょっと傲慢だし、偏った考えかただとおもう。

よく考えてみれば、当たり前なのだけれど、英語なんか話せなくたって、まったく困らない場所が、世界にはいくらだってあるのだ。

あの英語様が、役に立たない場所があるなんて♪

そう思ったら、英語くらい話せて当たり前、というプレッシャーに日々さいなまれ、縮こまっていたわたしの心が、解放されてぐーんとのびをしているようだった。

「ちょっとはスペイン語わかったりする?」

夫が聞くので、

「アディオス(さようなら)、アスタマニアーナ(またあした)」

わたしは答えた。

夫のかおに、かるく失望の色がうかぶ。

「あ、あと、ムーチョ・グラシアス(とってもありがとう)」

なんで覚えたかというと、辛ムーチョというお菓子があったから、と付け足したけれど、聴こえていないようだった。

それからわたしたちは、スペイン語とイタリア語とフランス語の、知っている単語を必死でかきあつめた。

チンプンカンプンなやりとりのすえ、「オムレツの全部入り」をなんとか注文できたときには、わたしはすっかり愉快な気分になっていた。

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やがて女の子は、淹れたてのコロンビアン・コーヒーを運んできてくれた。

コーヒーは、なめらかでまろやかで、ちょっと甘みがあってコクがあり、どこにもひっかかることなくするするとのどごしがよく、やさしい味がした。

屋上からはぐるり、ひしめき合うように建つ古いCASA(家)の屋根が、波打つようにひろがっているのがみえた。

無彩色な屋根の連なりの合間には、ところどころパッとこぼれるようにフーシャピンクの鮮やかな色彩が顔をのぞかせていた。

それは、外からは決してうかがえない、回廊式の中庭にかくされた「秘密の花園」なのだった。 

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ふいにガタンガタン、と頭上で音がして、みあげると日よけのトタン屋根のふちから、みたこともないような黒い恐竜みたいな顔つきの大きな鳥が、こちらを覗きこんでいる。

正直、ちょっと、恐ろしげでビビった。

朝、鳴いていたのはこの鳥かもしれない。

本気で襲撃されたら、ただではすまなさそうな風貌である。

なるべく刺激しないようにして、ゆっくり視線を外した先に目に入ったのは、屋上の手すりにからまる花の蜜を吸いにきたハチドリだ。

ブーンとホバリングして空中にとどまり、長いくちばしで蜜を吸っている。

海からの風が、吹いている。

だれかがスペイン語で話しているのが、したの通りから聞こえてくる。

わたしはふたたび、街の音に耳を澄ました。

いったい、どんな街なのだろう?

なにしろ昨夜おそくに着いて空港からホテルに直行、ホテルの目の前のハンバーガー屋で夕食をすませてしまったので、いったい自分がどんな街にいるのか見当もつかないのだ。

まだみぬ街に、想像がふくらんだ。

そのときすでに屋上にあがってきてから、ゆうに1時間以上が経っていたのだけれど、わたしたちはもう一杯だけ、コーヒーをおかわりすることにした。

いましばらく街のにおいに、音に、光に、感覚を澄ましていたいとおもったのだ。

(つづく)