アサリのだしと、青々しいフレッシュな香りのオリーブオイルが、たっぷりからまったモチモチの手打ちパスタ。
スパゲッティ・ボンゴレを口に運びながらわたしは、いつになく、ふかーく、心から、夫に感謝しているところである。
ジュデッカ運河をのぞむ、ザッテレ河岸のレストラン。
カナル・グランデやサンマルコ広場からすこし外れ、アカデミア美術館やグッゲンハイム美術館の先にあるこのエリアには、ヴェネツィアにあっては貴重な、ちょっと落ち着いた空気がながれている。
だいすきな須賀敦子さんのお気に入りの場所で、しばしばエッセイに登場するザッテレ。エッセイを読みながら「いつか訪れてみたい」とずっとおもっていた場所なのだ。
私は、仕事に疲れたときやひとりでものを考えたい時、そして授業の準備をするときにも、この河岸の船の発着場に面した庶民的なカフェテラスで時間をすごすことをおぼえた。船を待つ人たちや、水夫らが利用することが多いのか、のんびりとしたジュデッカ運河の風景と、このカフェの荒っぽい、それでいて日常の記号にみちた雰囲気が、芝居じみたヴェネツィアにふりまわされ、仕事に倦んだ自分をやわらかくいやしてくれる。
「ザッテレの河岸で」須賀敦子
ヴェネツィアに到着した日。
アカデミア橋の船着き場で待ち合わせした、Airbnbのニコラスくんに導かれ、私たちはアパートにむかった。
グッゲンハイム美術館の裏手から一つ路地にはいると、いきなり洗濯物がはためくふつうの住宅街になる。
どのアパートだろう?
キョロキョロしながらあとをついていくと、
「あ、ココです」
急にたちどまったニコラス君が指さしたのは、そこに道があるなんて知らなければ見落としてしまいそうな、細い細い路地である。
”Calle Incurabili”
両側に高くそそりたつ壁に、通りの名前を示すプレートが打ち付けられてある。
”インクラビリ(不治の病人たち)通り”
うわ、すごい名前のとおりだな、と夫。
ですよね、と苦笑いのニコラス君。
おじけづく二人の男たちを尻目に、わたしは、おどろきと興奮を禁じえなかった。
「不治の病人たち」という、おそろしい名のついた河岸があって、以前は病院だったという。緑の茂みが横の小さな水路に姿を映している、しずかな庭があった。
「ヴェネツィアに住みたい」須賀敦子
不治の病人というのは、梅毒にかかった娼婦たちのこと。
16世紀、彼女たちが送り込まれたのが、ここにあったオスペダーレ・デリ・インクラビリ(不治の病人たちの病院)なのだ。
エッセイ「ザッテレの河岸で」で、須賀敦子さんは、「インクラビリ、と聞いたとき、まるで自分のことを言われているよう」に思う。
孤独や絶望のふちに立ち尽くした日々や、これでいいのかと常に迷い悩んできた自らの人生を、梅毒という当時は不治の病を患った「救いがたき女たち」に重ねたのだ。
そして彼女たちの軌跡をもとめて歩きまわった場所が、このインクラビリ。
まさにそこに、私たちのアパートは建っていたのである。
インクラビリ通りは、グッゲンハイム美術館の裏手を少し入ったところから、ザッテレ河岸までつづく、歩いて3分もかからない短くて狭い路地だ。
壁にきざまれたキリストのレリーフが、辻々で人々を見守っている。
インクラビリ通りを抜けて、ザッテレ河岸に出ると、対岸のジュデッカ島とレーデントーレ教会がみえる。
「救いがたき女たち」に自分を重ね、彼女たちの心によりそい、彼女たちもかつて救いを求めたであろう、この教会を目にして、
彼女たちの神になぐさめられて、私はたっていた。
「ザッテレの河岸で」須賀敦子
そう、このエッセイはむすばれている。
そして今、須賀さんが娼婦たちに自分を重ねたように、私たちもまた、須賀さんに、そして16世紀の娼婦たちに、自分を重ねながら須賀さんの文章を読む。
こんなにも須賀さんの文章にこころひかれるのは、なぜだろう?
ずっと不思議だったけれど。
それは、他ならぬわたし自身もまた「救いがたき女」のひとりであり、だれしもが大なり小なり「救いがたき」ものを抱えているからにちがいない。
うむ。。
そんな思いを、一粒のあさりとともにかみしめる、インクラビリ通りの住人である。
あ。そういえば。
夫にいつになく、ふかーく、心から感謝してるところだったのでした。
まったく意図せざる結果とはいえ、このアパートをみつけてくれた夫に感謝です。
夫よ、グッジョブ❤️