陶芸家のジョエルが、花器ばかりを集めたちいさな個展をひらくことになった。
ジョエルの工房には、毎年いけばな仲間と花器を作陶するワークショップでお世話になっている。
「それならば、花を生けて展示したらどう?」
ジョエルの友だちで、いけばなを教えるアリアンヌがコラボレーションすることになった。
陶芸といけばな。
Vernissage(オープニング・パーティ)には、双方の関係者が大勢集まり、話に花が咲いた。
アトリエの入り口の、シャンパンやフィンガーフードを用意したところに人だかりがして、遠目にみるとまるで繁盛しているバーみたいな盛況ぶりだった。
じっさいのところ、展示会とは全く関係のない通りすがりの人も、相当数混じっていたように思うのだけど、それで展示に足をとめてもらえるのなら大歓迎!
「どちらさんでしたっけ?」
どこのだれだかいまいちわからない隣人と、お酒をくみ交わし、ひとしきり飲んで、食べて、おしゃべりしたあとは、アトリエの中に移動して、みんなで詩の朗読に耳をかたむけた。
アトリエの中央におかれた椅子にゆったりこしかけたジョエルのともだちが、美しい装丁の本を手に、日本の古い詩を朗読しはじめる。
ざわついていた会場はしーんと静まりかえり、自然と彼女をとりかこむようにして人の輪ができた。
朗読なんて、いつぶりだろう?考えてみたけれど、思い出せない。
もしかしたら、小学生のころまでさかのぼらなければならないほど久しぶりで、ちょっと新鮮だった。
ただ、読み上げられる言葉に、耳をかたむける。
地味だけど、ひとつひとつの言葉が心にひびく。
スマホや、テレビや、ラジオがなかったころ、人々はこんなふうに集まって、物語やニュースに、じっと耳をかたむけていたのだろう。
そこで読み上げられるひとつひとつの言葉は、いまとは比べものにならないくらい、貴重なものだったにちがいない。
そして、当時の言葉は、いまとは比べものにならないくらい、力をもっていたにちがいない。
わたしたちは、便利とひきかえに失ったものを思いながら、ただただ言葉に耳をかたむけた。
そもそも。
言葉を文字としてではなく、その音にじっと耳を澄ますということが、最近めっきり少なくなったように思う。
おなじ言葉でも、目から入ってくるのと、耳からでは何かがちがう。
声色や抑揚、スピード、ボリュームによって、話し手の気持ちや感情がより伝わりやすいということはもちろんあるけれど、目で読むものはまず頭に入ってくるのにたいして、耳で聞くものはダイレクトに心臓に入ってくるような気がするのだ。
それにメロディがついて歌となれば、いわずもがな。
前の日の晩、クラシックのコンサートを聴きにでかけたときのこと。
演奏されたのは、バッハの”パッション”で、オーケストラに合唱がつく編成のコンサートだ。
この曲は、復活祭前の聖金曜日に合わせて演奏されるのだが、いちおうクリスチャンの夫とその友だち(音楽通)に、ただふらっとくっついて行ったわたしは、クリスチャンでもなければ音楽通でもない。
当然、曲の意味などなにも知らず、ただコンサートの雰囲気が楽しめればいいかなー、ぐらいの軽い気持ちででかけていったのである。
ちなみに合唱はドイツ語のため、聴いても内容はちんぷんかんぷんである。
それでもコンサートは、会場の音響がすばらしく、男女混声の合唱は大迫力、ドラマティックな旋律に耳を澄ませば、わからないなりに心揺さぶられるものがあった。
コンサートの帰り道、夫の友だち(音楽通)にきかれた。
「演奏は、どうでしたか?」
音楽通を相手に、できれば答えたくない質問だったが、知ったかぶりするためのネタのカケラすらもちあわせていなかったため、感じたままを正直にいうことにした。
「ドラマティックな旋律に、なにかこう祝福みたいなものを感じて、幸せな気分になりました」
すると、いちおうクリスチャンの夫がいいにくそうに、いった。
「祝福かぁ、おかしいなぁ、キリストが磔にされて、お墓に埋められるところで終わる曲なんだけどなぁ」
復活祭の時期に演奏される曲だというので、てっきりキリストの復活を祝福する曲だと思っていたのだが、よくよく曲名を調べてみると、曲名はマタイ受難曲(Matthäus-Passion)。
曲が演奏される聖金曜日というのは、キリストが磔にされた日だったのだ。
穴があったら入りたい。
いたたまれぬ心境で絶句するわたしに、夫の友だち(音楽通)がひとこと。
「いやいや、祝福を感じたというのは、全くおかしくないですよ。曲はキリストの受難を描いたものですが、そこにはすでに復活の予兆も描かれているからです。」
彼のやさしいフォローだった可能性はなきにしもあらず、ではあるけれど。
耳を澄ませば。
メッセージは心にとびこんでくる、、のかもしれぬ。
*コンサートを聴きにいった、こじんまりと美しいヴィクトリア・ホール♪