くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

クゥックゥーのマダムと、般若ちゃん。

数日前から歯が痛みはじめた。

とにかく、ちょっと歯ごたえのあるものを食べると痛みはじめるので、フワフワの甘い菓子パンしか食べられない。ここ最近はまるでハイジに出てくる、ペーターのおばあちゃんのような食生活をおくっている。

わたしには、変な寝相で寝たとき、ものすごい勢いで歯を食いしばるくせがある。こんな風に歯が痛くなるのは決まってそのあとだ。

食いしばる、という行為は、歯に破壊的なダメージを与えるらしく「食いしばりが原因の知覚過敏」というのが前回の歯医者さんの診断だった。

ところが厄介なことに「冷たいものを食べると、キーンと数秒おそってくる」というような、あの知覚過敏の痛みかたとちがい、わたしのはひとたび痛みはじめると数時間つづく。

それは、こんなにずーっと苦痛に顔を歪めていたら、眉間のシワになって刻みこまれるのではなかろうか?と不安になるくらいで、あわてて歯医者に予約をいれた。

歯医者には、バスでむかった。

運転席のすぐうしろで窓にもたれ、わたしが痛みに耐えていると、

 クゥッ、クゥー♪

 クゥッ、クゥー♪

歌うような調子で、だれかがそういうのが聞こえた。

 クゥッ、クゥー♪ ムッシューショッファー♪

それは、通路をはさんだ向かいの席に、夫婦で座っていたおばあちゃんだった。

日本語にするとなんてことはなく「もしもし、運転手さん」と言っているだけなのだけれども、おばあちゃんの言い方があんまりチャーミングだったので、年若い運転手さんもおもわずニッコリ。

 ウィ♪ マダーム♪ ヴゼメエデー?

つられて歌うような調子でこたえていた。

これには、周りのわたしたちまですっかり気もちが和んでしまった。となりあう乗客どうし、無言で微笑みをかわしあいながら、ふと思いだしたのが、若かりしころ上司にいわれた言葉だ。

「フキゲン、美人がだいなし!」

いつでも機嫌よくいることは、どんな美人にも勝る、とその上司は、不機嫌顔のわたしをたしなめたのだった。

話のすじからはすこし外れるのだが、その上司が不機嫌顔のわたしにつけたあだ名というのが「般若ちゃん」。よく考えてみると、会社でしょっちゅう不機嫌になるわたしもわたしだが、オフィスで部下を「般若ちゃん」と呼ぶ上司も上司である。が、いま歯の痛みで歪むわたしの顔は、まさしくその「般若ちゃん」なのだった。

ともあれ。

「フキゲン、美人がだいなし!」

と、たしなめられた当時のわたしは、都合よく「美人」というところだけ切りとって、機嫌をなおしておしまい。するっと記憶のかなたに葬り去られていたのだが、数十年を経て、遠くヨーロッパの真ん中で、バスに揺られながらわたしは今、その言葉の本意をかみしめていた。

バスはマロニエの並木道をすすみ、やがて壁じゅうが藤とリラのむらさきで包まれたアパートの前のバス停に停車した。

 さようなら。

笑顔をふりまいて降りていくマダムに、隣に座っていたおじいさんがこう言っていた。

 おしゃべりできて、とても楽しかったです。

あんまり仲良く話していたので、てっきり夫婦だと思ったのだけど、ただ袖ふれ合っただけの他人だったらしい。

マダムと入れ替わりに、扉から入ってきたのは、終わりかけのマロニエの白い花と、藤とリラの花の甘いかおり。バスが発車して、マダムの姿が見えなくなってしまってからも、おじいさんの横顔には目尻に横ジワが、微笑みの余韻が、いつまでも消えないで残っていた。

いつでも機嫌よくいることは、どんな美人にも勝る。

まちがいない。

クゥックゥーのマダムは、どんな美人よりも美人だった。

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*歯医者さんでは、食いしばり防止のマウスピースを作ってもらった。般若ジワが刻まれるのはとりあえずまぬがれ、ホッとひと安心。できればシワは眉間ではなく、目尻に刻みたいもの。。