くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

Mさんの足あと

夫ファミリーの家訓というか、しきたりの一つに「別れ際には、お互いの姿が見えなくなるまで手をふり続ける」というのがある。

それどころか、ひとつ目の角を曲がり念のため振り向くと、その角のところまで出てきてまだ手を振っていたりするので、いまでは姿が見えなくなってからもしばらく手を振るのが、すっかり習慣になってしまった。

じつはこれ。「じゃあね」と背中を向けたとたん、さくっと一人モードになれないわたしにとっては、うれしい習慣。こうみえて、人と会った後は余韻をずるずる引きずるタイプなのだ。

たとえば日本に一時帰国して友だちと会った夜。布団に入ってからも会話がぐるぐる頭の中をめぐり続けて、寝られた試しがない。

たとえばお客さんが帰ってしまった後。テレビをみたりパソコンをのぞいたりしてみても、どこか上の空。スパッと気分を切り替えることができない。

さっさと次にいけたらどんなにいいだろう。そう思うこともしばしばなのだが、そこにある余韻を放っておけないというか、フタをしておけないというか。

ようするにわたしは「余韻」というものが、好きなのだと思う。

残される「余韻」には、じつにさまざまなものがある。

じんわりあたたかい余韻、がちゃがちゃ愉快な余韻から、身の引き締まるようなきりりとした余韻や、ゆるゆるほどけるような余韻まで。

どれがよい、というものではなくて、余韻はその人の一部であり、その人との関係性によっても変わってくるところが、それぞれおもしろい。

先週。

スイス国境に近いフランスに住むMさんと婚約者が、郵便物を受け取りにわが家に立ち寄ってくれた。

通販や書類など、スイスの住所じゃないと郵送できない、あるいはフランス(EU)の住所じゃないと郵送できないケースが結構あって、おたがい融通しあう仲なのだ。

お茶を飲んでおしゃべりして、これから買い物に街に出るというMさんたちを、アパートの一階のエントランスまで出て見送った後、わが家に戻ってみてびっくり。

玄関に「こんな余韻もあるのか!」と唸りたくなるものが残されていたのだ。

それはMさんが履いていた、BALLYの靴底だった。

どうしたものだか右足の分だけ、キレイにはがれて、床にくっついていた。

婚約指輪を作りに、高級宝飾店に行くと言っていたMさん。入店を断られていないといいのだけれど。。

Footprint

*再びロックダウンの足音が、、と言っていたところ、ジュネーブでは明日から店舗・レストランの閉鎖がアナウンスされました。11月は義母の誕生会が恒例なのですが、今年はできそうにありません。