さばすたいる

スイス暮らしと旅のエッセイ

ホームシックにつける薬

 帰ろうと思えば、いつでも帰れる。そう思っていた日本に、なかなか気軽に帰れなくなってからかれこれ一年になる。

 わからないぐらいちょっとずつ。一年かけて胸の底にふり積もってきたものが、重石みたいに居座わりはじめていることに、ちょっと前から気がついてはいたのだ。

 見て見ぬふりをきめこんでいたのが、さいきん何かの拍子にドーンと重みを増すことがあって…

 そろそろ出番かな? と先週わたしはひさしぶりに『救急箱』をひっぱりだしたのだった。

 この『救急箱』には「自己嫌悪につける薬」から「夫婦ゲンカにつける薬」まで、ありとあらゆる常備薬がつまっている。

 手にとったのは「ホームシックにつける薬」だ。

  •  軽度のホームシックには『嵐』
  •  中等度のホームシックには『大河ドラマ』
  •  重症化したホームシックには『日本の不動産サイト』(日本に移住するため家を探す、という妄想に真剣にふける)

 と、大抵のホームシックは、このあたりの薬をつければ2〜3日で治ってしまうのだが、今回ばかりはどういうわけだか、なかなか薬が効かない。

 いざとなったら、帰っちゃおう! という、あの最後の切り札をもてないことが、ボディブローのように効いているからか。

 一週間たっても、重たいものは、胸にいすわったままだった。

 

 どうしたものかと、思案しはじめた日曜の午後のことだった。ベランダで日本から送ってもらった雑誌をぱらぱらめくっていると、女の子の声がした。

「オラ〜!」

(こんにちは……スペイン語? 下の空き地で、ともだちと遊んでるのかな?)

「オラ〜!」

 もういちど、おなじ声がした。下をのぞきこむと、六歳ぐらいだろうか。見かけない女の子が、ニコニコ笑ってこちらをみあげ、手をふっている。

「オラ〜!」

 つられてつい、わたしも大きな声でこたえ、ニコニコ笑って手をふりかえした。女の子の背後では、女の子のお父さん、お母さん、お姉さんが並んでこちらを見上げ、ニコニコ笑っていた。

「新しくできたフェンスを、見にきたんです」

 とお父さんが言った。

 新しいフェンス、というのはアパートの敷地に不法侵入されないよう、先々週新たにはりめぐらされたものだ。

 この場所からはちょうどローヌ川がみおろせるので、ふだんから通りがかりの人がけっこうやってくるのだけど、ここ数日はこの新しいフェンス目当てにふらりと入ってくる人たちが増えている。

「チャオ!(バイバイ!)」

 やがて女の子たちがいってしまうと、ひとりベランダに取り残されたわたしは、きつねにつままれたような心持ちになっていた。

 いつのまにかあの重苦しくてどうしようもなかった胸が、嘘のようにすーっと軽くなっていたからだ。

 まるで胸につかえていたモノが、「オラ〜!」といっしょにスポンと抜けてとれたような……そんな爽快感。

 大きな声を出したのが、よかったのか?

 ひとなつこい女の子に、いやされたのか?

 それとも「オラ〜!」が、魔法の呪文だったのか?

 いずれにしても、これがホームシックの特効薬になってしまったことは、まぎれもない事実なのだった。

 

 もしかしたら、あの女の子は神さまが遣わしてくれた、守護天使だったのかも。

 無宗教のくせにずいぶん都合のいい解釈なのはわかっているけど、わたしはそう考えることにした。

 こんなふうに、八方塞がりでつける薬もないときに限って、思いもよらないところから救いの手が差しのべられること。じつはこれまでにもけっこうあって。

 それは守護天使のしわざなのだと、思うようにしているのだ。

 たとえば、それはバスに駆け込んできた老夫婦だったこともあれば、公園に転がっていたピンクのボール(スマイルマークがプリントされているので、ボールが笑っているようにみえる)だったこともあるし……そうそういつぞやは、ピザ屋のおじさんが手の甲にくれたキッスなんていう訳のわからないものに救われたこともあったっけ。

 守護天使はいろんな形に姿を変えて、神出鬼没。思いもよらないときに、思いもよらない形で、救いの手は不意に差しのべられるのだ。

 いつだったかそんな話を、年上の友人のTさんとしたことがあった。そのときTさんは、こういっていた。

「弱っているときだから、気づけることってあるんですよ」

 だからときどき弱ってみるのも悪くないのだ、と。

 救いの手は、いつだっていつだっていつだって、差しのべられている。

 わたしたちが、きづいてないだけで。

 そんなふうに考えられる大人になれたらいいな、とそのとき思ったことを、わたしは久しぶりに思いだしたのだった。

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*もうすぐ復活祭。卵のデコレーションをどうするか思案中。