くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

ウィーン風カツレツの、かくし味

「仔牛肉を二枚。シュニッツェル用に、薄くスライスしてください」

顔のまえに二本指を立ててお願いすると、肉屋のご主人が「うむ」とうなずき、仔牛肉の塊をケースから取りだす。

「2kgですね?」

大きな塊の半分ぐらいのところに、包丁を当ててみせるご主人に、

「えぇ、2kgほど。いや、いや……2kgって!」

と、ノリツッコミするのが、肉屋で肉を買うときのルーティンと化している。

肉をキロ単位で買っていく人が、ちっとも珍しくないスイスゆえ、ご主人も最初のころは冗談でも何でもなく、まじめに2kgだと勘違いしたにちがいない。しかし、最近ではわかっているくせにとぼけてくる。

スイスにノリツッコミが存在するのかは、さだかではないけれども、ご主人がわたしのこの反応を、楽しんでいることは確かである。

ノリツッコミを披露したあとで、

「薄切りを、二枚。これくらい薄ーいやつを、二枚ね」

指で空気をつまむように薄さを示す。このルーティンをこなしてはじめて、ご主人は機嫌よく仔牛肉をスライスしてくれるのだ。

その手際のよさときたら!

まず、肉切り包丁を斜めに当て、左手を肉にやさしく添えて薄ーくスライスした肉を、調理台の上にひらりっとひろげる。つぎに、肉たたきのハンマーを振り下ろし、バンバンバンと叩きのばすと、セロハンのあいだに挟まれたピンク色の仔牛肉は、あっというまに紙のように薄くなる。

あとはもう家に帰って、衣をつけて揚げ焼きすれば、Wiener Schnitzel(ウィーン風カツレツ)のできあがりというわけだ。

と、えらそうに言ってみたけれど、料理をするのは夫である。

ウィーン風カツレツが評判だと聞けば、あちこち出かけて食べ歩くぐらい、この料理が好きな夫が自分でも作るようになったのは、じつはこの一年ほどのことだ。

ひとつには、ステイホームで外食がままならなくなったこと。それから、食べ歩いたどのレストランの味にも、いまいち納得できていなかったこと。そんな矢先に、新聞でレシピを目にしたことがきっかけだった。

家庭料理を飛びこして、プロ級レシピに走るのは「男の料理あるある」だけど、夫がみつけたレシピも有名レストランのシェフによるもの。しかも回を重ねるたびに、揚げ油の配合を変えてみたりと自分なりに改良を加えたレシピは、身びいきなのを差し引いたとしても、レストランでも開けそうな出来栄えなのである。

ふわふわと波打つきつね色の衣はこんがりサクサクなのに、中の薄桃色の仔牛肉は、どこまでもやわらかくしっとりジューシー。と、ここでぜひ絶品レシピをご紹介したいところなのだけれど「夫婦いっしょに、厨房に入るべからず」。というわけで、残念ながら詳しいレシピをわたしは知らない。

ただ、ひとつわかっているのは「かくし味にウォッカを使うのが、このレシピの肝」ということだ。ウォッカを使うことで、肉と衣のあいだに空気の層を作ることができる。つまりこのふわふわと波打つ衣の秘密は、ウォッカにあるらしい。

何でもプロの料理人は専用のスプレーを使ってウォッカを噴霧するそうで……(どのプロセスで、どんな風に噴霧するのかわたしには全く想像もつかないけれど)さらにプロの味に近づけるべく、夫はこんどデパートに行ったら、そのウォッカスプレーとやらを購入したいそうだ。

ところで、かくし味といえば。

肉屋のご主人が肉をスライスし、薄くたたき伸ばしてくれるあのプロセス。あれもこのカツレツの重要なかくし味になっているんじゃないかな、とわたしは密かに思っている。だとすれば、わたしのノリツッコミも、微力ながらかくし味に貢献している、と言えなくもないわけで……

料理は、買い物するところから、既にはじまっている。というのは、はたして誰が言ったのだったか? さっぱり思い出せないのだけれど、あの言葉は本当だったと思いつつ、次はどんなノリツッコミをしようか、わたしは思いをめぐらしている。

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#つけ合わせには、スイス風のポテトサラダ。ブイヨンでマリネしたり……とじつは、メインのカツレツよりも手間がかかっているらしい。これにビールか、ワインがあれば、もうビアホールに行かなくても生きていけるかも。