くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

ベトナムちまきと、マダム。

この季節になると、楽しみにしているたべものがある。

ベトナムの人たちが旧正月に食べる、ちまきだ。甘辛く煮た豚と卵の黄身を、もち米でくるんだものを、バナナの葉で包んで蒸してあるこのちまきは、一年のうちでもこの時期にしか売っていない。

じつは一月から二月にかけてというのは「この時期にしか売っていないもの」が目白押しで、けっこういそがしい。たとえば公現祭の「ガレット・デ・ロワ」に、ファスナハトの揚げ菓子。それからこのベトナムちまきである。

なにしろこの時期を逃したら、食べられるのは一年先になる。となるとぜったいに、食べ逃したくない。ところがわたしは、キリスト教徒でもなければ、お祭りに参加するわけでも、旧正月を祝う習慣があるわけでもない。つまり、肝心な行事のほうはおろそかにして、食べものだけを楽しみにしているふとどき者であるため「うっかり忘れて、食べ逃す」という危険性が、なきにしもあらずなのだ。

そこでわたしは近年、お正月に手帳をおろすと、真っ先にこれらの日付を書きこんで、その日を待つことにしているのだが、にもかかわらず。(そう。にもかかわらず、という言葉はまさにこういう時のためにある)わたしがベトナムちまきを予約し忘れたことに気がついたのは、旧正月の朝である。

あわてて財布をつかんで、ダウンタウンのベトナム食品店にむかうと、入ってすぐのレジにはながい列ができていた。冷蔵ケースに目を走らせながら、列の最後尾につく。予約が基本のちまきは、とうぜん店頭にはみあたらない。レジからは新年のあいさつをかわす、マダムのにぎやかな声がきこえてくる。わたしはやきもきしながら、順番を待った。

「ちまき、ありますか?」

ようやく順番がきて、おそるおそる聞く。

「いくつ?」

あまりにもあっさり言われたので、ひょうしぬけして、

「ふたつ」

ひとつでも御の字だったのに、きゅうに欲をだしてみる。

「XXくーん、ちまき、ふたつ〜」

レジから微動だにせず、マダムがさけぶ。

「あいよ〜、ちまき、ふたつ〜」

店の奥から返ってきたのは、威勢のいい返事だ。

間口がせまく、うなぎの寝床のように奥に長細い店内。ゆいいつの通路といえば人ひとりが通るのがやっとで、店の奥まで在庫をとりにいくのはひと苦労なのである。

こうしてマダムが大声で叫び、奥のほうにいる人に品物を持ってきてもらうのが、一番てっとり早い。そうすれば、マダム自身レジから一歩たりとも動かずして、リモートで人材を操れるというわけ。

ここで問題は、マダムが大声で指図している相手である。わたしが追加でベトナムハムとナンプラーを注文するはしから、

「○○さーん、ハムひとつ〜」

「△△くんっ、ナンプラーいっちょう!」

などと、マダムが指示をとばしている相手というのは、じつはこの店の店員ではない。

「はいよ、ナンプラーね」

いそいそとわたしに品物を手渡してくれるこの人たちは、いったいだれなのか?といえば、たまたまその辺りで買い物かごを提げていただけの常連客なのである。

客を使う。

この破天荒な人材マネジメント術には、人事のプロも舌を巻くにちがいない。

「ボナネー!(よいお年を)」

マダムに見送られて店を出ると、わたしはついせんだっても「ひとを動かせる人材が足りない」と経営者・Aさんが嘆いていたのをおもいだした。

「ぜひともAさんに、推薦したい人材だよね」

わたしがいうと、

「あの調子じゃ、Aさんのほうがこき使われそうだなぁ」

夫は苦笑いしていたけれど、たしかに!

いや、感心している場合ではない。

わたしたちが、マダムに使われる日も、近いのかもしれぬ。

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*ベトナムちまき。食べのがさずにすんで、よかった。