くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

インク壺の淵にて

こんにちは。

暑い日がつづきますが、いかがおすごしでしょうか?

わたしはいま、インク壺の淵に佇んでいます。

「インク沼」というものの底知れぬ恐ろしさは「はまったら最後、ぬけだせない」。つねづねそう聞かされてきました。ですから去年、万年筆を手に入れてからも、インクはブルーブラック一本のみ。沼には極力近づかないよう、細心の注意をはらってきたのです。

ところがわたしはいま、インク壺の淵に佇んでいます。

足を踏み入れようか、踏みとどまろうか? 

わたしの理性は、ぐらんぐらんと音をたててゆれています。

Lutry(リュトリ)は、レマン湖畔の小さな村。

鉄道の駅からは、いちめんに広がるラヴォーのぶどう畑を縫うようにして、ひたすら坂道をくだるとリュトリの船着場につきます。

このインク壺は、そのリュトリのブロカントからやってきました。

じつをいうとこのインク壺をみつけたとき、わたしはそれが何なのかもわからないまま手にとっていたのです。というのもそれは、手折られた一輪の菊の花が、テーブルにそっとおかれたように象られたブロンズ製のオブジェで、いわゆる一般的なインク壺のかたちからはほど遠いものだったからです。

しかし、わたしがはじめ家具かなにかの装飾パーツ、あるいはペーパーウェイトだと思ったそれは、花芯のところがパカっと開く仕組みになっており、そこにインクをいれて使うインク壺だったのでした。

そう教えてくれたのは、さいぜんからチラチラとわたしの手元に目を走らせ、じりじり距離をつめてきていたおばさんです。ポシェットを提げヨークシャーテリアを連れていたので、てっきりおなじ獲物をねらう客だと警戒していたのですが、おばさんこそがこの店の店主なのでした。

ペーパーウェイトだと思って手にとった時には、ちょっといいな、ぐらいだったそれがインク壺だと知ったとたん、わたしはがぜん欲しくなってしまいます。

元の持ち主はどんなひとだったのだろう? こんな愛らしいインク壺にペンを浸し、いったい何を書いていたのだろう? かわいい女の子がアルファベット の練習をしていたのか、はたまた乙女がラブレターをしたためていたのか? 

モノの背後にちらつくストーリーに、わたしはめっぽう弱いのです。

欲しい。

でも。

そもそもつけペンの類はひとつももっていないのに、何に使うの? とわたしの理性がささやきます。うーむ、と唸るわたしに、ヨークシャーテリアとおなじ髪型をしたおばさんが、前髪の奥でつぶらな瞳をキラキラさせていいました。

「ここにほら、てんとう虫がとまってるの。かわいいでしょ」

こうなるともう、いけません。

つぶらな瞳に、てんとう虫!

わたしのなけなしの理性は、こっぱみじんに砕けちりました。

「ください!」

そうさけぶ前に、値引き交渉をする理性はかろうじて残されており、40フランを30フランにまけてもらいました。ただし、それが高いんだか安いんだか、さっぱり見当はつきません。

かくしてわたしは、インク壺の淵に佇むこととなったのでした。

紅茶、琥珀、山ぶどう、月夜、すみれ、エメラルド、冬柿……。いまわたしは、名前を聞いただけでうっとりするようなインクのカタログを、ながめています。

インク壺の淵にて。

一歩足を踏み入れようか、踏みとどまろうか? 

わたしの理性は今、ぐらんぐらんと音をたててゆれています。

*本日はこのインク壺にペンを浸し、手紙をしたためているイメージで、文章を書いてみました♪ 葉っぱの部分がペンレストになってます。