くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

ぜんさいのあじ

 再婚して十年。合わない部分も多々ある中、これだけは合っていて良かったと思うのは、食の好みだ。中でも二人そろって好きなのは、タイ料理。パッタイなどの定番に加え、タイに駐在していたことのある夫は、地方の郷土料理にもくわしい。ちょうどその日も「カオソイが食べたい」と夫がいいだし、早めのランチをとることにしたのだ。

 劇場裏のそのレストランを訪れるのは、これがはじめてだった。入り口で黒板のメニューをみていると、手持ちぶさたにしていたウェイターが、テラスにテーブルを用意してくれた。
「メニュー、お持ちしますね」
 流暢だが、かすかに外国語のアクセントが残る。四十代半ばといったところだろうか。笑うと片頬にえくぼができ、人懐っこさが顔いっぱいにひろがった。
「カオソイ、ありますよね?」
 夫は、行きかけたウェイターを呼び止めた。
「カオソイ、ですか……」
 ウェイターの笑顔が、にわかにくもる。カオソイは北部の郷土料理。タイ料理店ならばどこにでもおいてあるという代物ではない。だから「ない」といわれても何の不思議もない。

 しかしここは北部料理の店だと、事前に調べをつけてきたのだ。それだけに「ない」と言われたときの夫の落胆ぶりときたらなかった。すると、みかねたウェイターがこう言いだした。
「2ブロック先の店でなら、食べられますよ。よければ、今からそちらの店に移ります?」
 わたしたちは、思わず顔を見合わせてしまう。系列店というわけではないらしい、となればライバル店のはずだ。ずいぶんおかしなことを言うなぁ、と顔をもどすと、ウェイターのいたずらっぽく笑う目と目が合った。なぁんだ、冗談か。
「美味しいの?」
「美味しいですよ」
 ウェイターが胸を張るので、夫はさらにジャブを打った。
「またまたそんなこといって、食べたことあるんですか?」
 そう。わたしたちは軽いジョークの応酬を、楽しんでいるつもりだったのだ。遠い目をしたウェイターに、こう言われるまでは。

「味は保証しますよ。なにしろ前妻がやってる店ですから」

 なるほど、お袋の味というものがあるのだから、前妻の味があってもおかしくはない。他人ごとみたいに笑っている夫にだって(言えないだけで)前妻の味のひとつやふたつあるのだろう。前妻の味、それはようするに、胃袋の記憶である。消すのが難しい、という点においてそれは頭の記憶よりも確かで、場合によっては厄介なものなのかもしれない。

 教えてもらったその店は、十人も入ればいっぱいのこじんまりとした店で、カウンター席からは小柄な女性がひとり、厨房できびきび立ち働くのがよくみえた。
「おまたせしました」
 さし出された丼からあがる湯気のむこうに、やわらかな笑顔がのぞく。ココナッツミルクベースのカレースープに、茹でた麺、鶏肉、それに揚げ麺がトッピングされたカオソイ。ひとくちすすると、クリーミーなスープが麺に絡み、スパイスの香りが鼻にぬけた。
「美味しいですよ」
 からりと笑ったウェイターの顔が、浮かんで消えた。