くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

夫婦げんかは「夜の庭」で。

「Jardin de nuit (夜の庭)」という題名の絵を額装にだしていたのが、出来上がってきた。これはわたしが好きなスイス人イラストレーター・アルベルティーヌさんの絵で、昨年のクリスマスにRがプレゼントしてくれたものだ。

アルベルティーヌ さんは詩的なストーリーを紡ぎだすパートナーのゲルマノさんといっしょに、ちょっと幻想的な世界観の絵本を作っている。その世界観にひかれ、わたしが絵本を手に入れたり個展にでかけたりしていたのをRが覚えていて、ギャラリーに注文してくれたのだ。

アルベルティーヌ さんの絵は、心象風景のような深層心理をあらわしているような、どこか精神的なものを感じさせるものばかりだ。人が何を考えているか? 本当のところは、うわべの態度や言葉では測れない。人はいくらだって嘘がつけるし、他人に対してはもちろん、自分自身に対しても嘘がつける。目を背けたいことや隠したいことがあればあるほど、人はかえって饒舌になるものだ。

だけど、そうだと頭ではわかっていても、うわべのことに惑わされ振り回されてしまうのが人間で……だからわたしはアルベルティーヌさんの絵が好きなのだ。それぞれの人の心の奥底には、意識されることのない世界があるのだということを感じさせてくれるから。

少し前に受講している児童文学の講義で、フィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』を読んだ。かなり乱暴にまとめてしまうと「トムとハティが時間を超えて”真夜中の庭”で出会い、心を通わせる」という物語の主題となっているのは、「時間」と「孤独」だ。

孤独には、いろんな種類がある。孤独というとふだんわたしたちは、社会的に孤立したり家庭内暴力やいじめのような孤独をイメージしがちだけれど、『トムは真夜中の庭で』でピアスが描いているトムの孤独は「いい人たちに囲まれているにもかかわらず、孤独」なのだ。身近にいる人に理解してもらえない、わかり合える人が周りにいない、というこのタイプの孤独は厄介だ。

じつをいうと昨年のクリスマスの夜、わたしはRと大喧嘩した。だからこのプレゼントの包みを開ける瞬間といえば、わたしのはらわたはぐらぐら煮えたぎっていたのだ。(煮えたぎりながらもプレゼントは受け取ったのだが)怒りはその夜だけではおさまらず、数日間、口もきかずに過ごしたのだった。

海外で暮らしていて、学校や会社に通っているわけでもなく、わたしのことを深くわかってくれている家族や友人たちも近くにいない。そのうえ唯一の身近な人にもわかってもらえないとなると、わたしはトムとおなじぐらい孤独だ。そのうちふだんは忘れている海外生活の嫌なところも目についてきたりもして。

けんかの理由は相当くだらないので書かないでおく。でも結局のところは「わかり合えない」ことに端を発している。くりかえしになるけれど、人が本当のところ何を考えているかは、他人からはわからないし自分自身だってわからない。それなのにわかり合えると思うのが、そもそものまちがいなのだろう。

でも、だからこそ、トムとハティが「真夜中の庭」で出会えたように一瞬でも誰かと「わかりあえた」と思えた記憶は、一生の宝ものになるのだとおもう。そういう記憶が少ないながらもあるだけで、もしかしたらわたしは幸せなのかもしれない。

そのことを強く感じさせてくれるアルベルティーヌさんの絵が、このときのプレゼントの中身だったことは、いま考えるととても皮肉だ。

皮肉であり、運命だ。

つぎに頭に血がのぼりそうになった時、わたしはこの絵の前に立ってみようと思っている。わが家の夫婦げんかの百%がわたしが怒るパターンなので、これで夫婦げんかが減るようならば、このプレゼントの投資対効果は上々だったことになる。

『LE LIVRE BLEU』by Albertine & Germano Zullo

〈 Albertine個展「apparition」2021 〉