宇治のお寺の参道にあるちいさな骨董屋の、戸棚にひとつだけちょこんとならべられていた染付のそばちょこ。
他のものを購入して、さぁ帰ろうとふり向いたとき、ふと目が合ってしまったのだ。
灰色がかった落ち着いた白地に、スモーキーな藍色のやわらかな筆致。手のひらで包むとすっぽり収まる小ぶりなサイズで薄手のそばちょこは、思ったよりずっと軽くて繊細なかんじがした。
お茶やコーヒーを入れてもいいし、小鉢としても使える。それにサイズや形がほぼ同じなので、違うものをバラバラに集めてつかう楽しみがあるよ。と教えていただいた。
かくして私のもとにやってきたマイファーストそばちょこ。ながめたり、手のひらにのせたりしてニヤニヤしていると夫に気味わるがられた。
そういう夫だって、さっきから千円で買った塗りの敷板にあれこれのせてはよろこんでいて、「これが、千円のトレイと無料でもらったお皿だなんて、信じられる?」などと、ひとりで唸っているのだから、笑われる筋合いはないのだが。。
無料の皿とは、都をどりでお抹茶をいただいたとき、お土産でもらった菓子皿のことである。
あら、でもたしかに、こうして並べてみるとなかなかステキ。
そばちょことの衝撃的な出会いで、すっかり忘れていたが、そういえばともうひとつの紙包みを開ける。印判の小皿。一枚五百円。
印判は大量生産を可能にするために、図柄を転写して絵付けされたもの。手作業でおこなわれていたので、ズレやゆがみがあったりして、製品としてのしあがりはお世辞にもよいとはいえない。このお皿も色が抜けていたり、柄がゆがんでいたり、そもそも中心が合ってなかったりする。
機械化されたいまなら、五百円もだせばもっと完成度の高いものがいくらでも手に入るのになぜか、というか、だからこそというべきか、このてきとうなかんじ、ダメなかんじがイイ。
いくら手作業だから仕方がないとはいえ、ズレすぎだよ!とツッコミたくなるようなズレかた。どれだけ不器用なのか、おっちょこちょいなのか。。「あ、ずれちゃった。ま、いっか」なんて言いながらやってたのかしら?と想像するとなんだか可笑しい。
いまの時代だったら、不良品として廃棄されるところなのだろうけど、当時はこれでよしとされていたのだろう。そんなところに時代のおおらかさが感じられてホッとする。
森茉莉の「夢を買う話」というエッセイにこんな一節がある。
私は何か買う時、品物そのものを買うというよりも、”夢”を買ってくるような奇妙な場合が多い。だから常識人は首をかしげるような損な買いものをすることが多いのは当然の成りゆきというものである。(「私の美の世界」新潮文庫より)
高品質かどうか、便利かどうか、人気かどうか?今は何を買うにしてもいろんな情報が手に入る時代だ。しかもそこそこの値段でよいものが買える。
でも、だからこそ、たまにはこんな「夢を買う」ような買いものをするのはたのしい。そしてなにより、こういうモノたちは、暮らしに味わいを加えてくれるような気がする。