義兄のクリストフが、ランチに仔牛のパイ包みを焼いてくれた。切りわけるクリストフのがっしり肉厚な手をみていて思いだしたのは「ホフマンの手」だ。
フェリックス・ホフマンは、わたしが幼いころボロボロになるまで読んだ(かずかずの)絵本の作者である。『ねむりひめ』や『おおかみと七ひきのこやぎ』など、ホフマンの絵本にはもともと自身の子どもたちのために作ったものが多くある。いっぽうでは、ステンドグラスやフレスコ壁画などを製作する、職人的な一面ももっていたホフマン。
だからなのだろう。『フェリックス・ホフマンの世界』(小さな絵本美術館)にある自画像の中で、幼い娘さんの肩におかれたホフマンの手は、大きくて強くて、そして、優しい。その手は、職人でありお父さんの手だ。
そしてそれはホフマンの絵本『ねむりひめ』にも、幼い姫をうしろから包みこむ王さまの大きな手として描かれている。今にもぬくもりが伝わってきそうな、大きくて強くて、優しい手。こんな手に包まれているかぎり、子どもたちは何があっても安心していられるにちがいない、そんな手だ。
「森でも歩こうか?」
パイ包みを食べ終わると、クリストフがわたしたちを誘った。わたしたち、というのは姪っ子のサラちゃんとわたしである。
クリストフが住むアールガウは、チューリッヒからは二、三十分の距離にある。よくある大都市郊外の住宅街なのだけれども、ほんのちょっと歩くだけで牧草地や森がひろがっている。羊やヤギが放牧されていたり、森で乗馬する人とすれちがったり、夜には鹿の目が光っていたりすることもしばしばで、なだらかな丘陵のむこうには、川が流れ、山が連なる。その風景は、ホフマンの絵本のなかにでてくる景色そのものだ。
それもそのはず。アールガウはホフマンが暮らし、アトリエを構えていた地方なのである。ようするにわたしが歩いているのは、幼いころにくりかえし読んでもらったホフマンの絵本の中で、七ひきのこやぎが跳ねまわっていたあの緑の牧場であり、ヘンゼルとグレーテルがさまよったあのメルヘンの森なのだ。それも歩くだけではなく、そこに暮らす家族の一員となってしまったのだから、人生ってふしぎだ。
「そろそろ、もどろっか?」
サラちゃんがいうので腕時計をみると、わたしたちが歩きはじめてから一時間がたっていた。
「うむ、話もついたころだろうね」
と、クリストフがうなずき、わたしたちは家にもどることにした。というのも、そもそもこの散歩。Rたちきょうだいだけで話し合いたいことがあるというので、時間つぶしにでかけた散歩だったのだ。ドアを開けると、ニコニコ笑顔の三きょうだい。その笑顔が、話しあいの結果をものがたっていて、ひとまずわたしはほっとした。
「お茶にしましょう」
と、義姉のルースがいって、わたしたちがふたたびテーブルにつくと、テーブルの真ん中には大きなケーキがふたつ。そして、わたしがさきほどまで座っていた席についてみるとそこには、金貨のペンダントがおいてあった。
アルプスを背景に三つ編みをした少女・ブレネリの横顔が刻まれているこの金貨は、スイスでは赤ちゃんが生まれたときに、よくお祝いとして贈られるものだ。しかしこれは、ただの金貨ではない。昨年亡くなった義母が生まれたときにゴッドマザーから贈られ、ペンダントにして身につけていたものなのである。
それがいったいどうしてわたしの席に?
わたしが戸惑っていると、
「こういうの、欲しいっていってたでしょ」
と、R。
いや、いや、いや。ちょっと待った。
わたしは、大いにうろたえた。
たしかにファッション誌でみかけたコインネックレスを「こういうの、欲しーい」と軽々しくつぶやいたことはあったかもしれない。あったかもしれないけれども、そんなライトな理由で、大切なママの形見をいただくわけにはいかぬ。
しかし、
「ママもよろこぶと思う」
つけてみたら? と皆にうながされ、わたしはペンダントを首からさげてみることにした。金貨はひやりと冷たく、スン、と心地よい重みを胸にかんじた。
「似合ってる」
と、三きょうだい。
わたしは気を落ちつけるために義姉がいれてくれたお茶を、ひとくち、口にふくんだ。からからに渇いていた喉がうるおい、ようやくひと心地つくとなんだか胸がいっぱいになってしまった。
「ありがとう」
そういうのが、精一杯だった。
「おかわりもあるからね」
クリストフがケーキを切り分けてくれた。それを合図にペンダントからほかの話題に皆の関心がうつってしまうと、わたしはこっそり金貨に手をやり、その感触をたしかめた。
もしかしたら。
なめらかな刻印を指でなぞりながら、わたしは思うのだった。
外国に暮らしていると、日本にいれば抱えずにすんだことごとの重みに、ときどき耐えきれなくなることがある。こんなことなら、日本にいればよかったと、枕を涙でぬらす夜だってけっこうある。(あるのですよ!)
それでも、もしかしたら。
わたしはいまも変わらず大きな手のなかに包まれているのかもしれない。『おおかみと七ひきのこやぎ』を、ひざの中で読んでもらっていた子どものころのように。いまではその絵本のなかの町に暮らす家族の、大きくて強くて、優しい手のなかに。
つめたかった金貨はいつのまにかぬくもりを帯び、わたしの胸でぴかり、と光っていた。