くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

かつお節だよ人生は

生まれてはじめて、昆布とかつお節から出汁をひいた。なんて、新年早々、母がきいたら卒倒するかもしれない衝撃的な告白ではあるけれど、事実なのだから仕方がない。きっかけは、知り合いのドイツ人・マルチンさん。秋に北海道に行くといったら「昆布とかつお節を買ってきて」と頼まれたのだ。

それだけでもびっくりなのに、

「昆布はRISHIRI、かつお節は削ってあるやつじゃなくてBUSHIでお願いします」

などと言いだすので、つい語りに入ってしまったのがいけない。マルチンさんとわたしの「出汁」論議を傍できいていたRに、わが家の出汁がインスタントであることがバレてしまったのである。

「せっかくなら、わが家も本物の出汁を味わいたい」

というわけで、わが家にも昆布とかつお節を買って帰り出汁をひいてみる、という逆輸入的なお正月を迎えることになったのだった。

さて。

そうしてひいた出汁で作ったお煮しめとお雑煮を今、わたしはクリスマスツリーの前で味わっている。今年のもみの木は、クリスマス直前に買ったのでお正月を迎えた今でもピンとしていて、まだまだ飾っておけそうである。スイスに来たばかりのころは、お正月になってもクリスマスツリーが飾ってあるのが、何ともチグハグな感じがしたものだ。しかし、何度かのクリスマスとお正月を過ごすうちに、ひとつわかったことがある。

もみの木は、門松なのだ。

日本ならクリスマスが終わるや否や、撤収され門松におきかわるもみの木だけれど、ここではお正月も三が日をすぎたころになってやっと、各家庭から出されたもみの木が道ばたでひっそりと、市の収集車のやってくるのを待つ姿をみることができる。年末年始のゴミ収集のスケジュールご案内のチラシにも、よくみると、ちゃんと「もみの木収集日」が記されている。

じつをいうとわたしはこのもみの木たちをみるのが苦手だ。きらきらと飾り付けられて、暖かい部屋で年末年始を各家庭ですごしたであろうもみの木が、寒風ふきすさぶ路頭に、まる裸にされて打ち捨てられているのをみると、ぎゅーっと胸がしめつけられるように痛む。ましてやうちの子(わが家のもみの木)を出すときなどは、言わずもがな。

その姿は、アンデルセン の『もみの木』をおもわせる。

アンデルセン の『もみの木』は、今あるものをないがしろにして、ないものばかりを求めがちな人間に、自らを省みる気づきを与えてくれるお話だ。『クリスマス・キャロル』にしても、わが家のクリスマス映画の定番『すばらしきかな人生』にしても、なぜだかクリスマスものには「自らを省みる」系が多い。かくいうわたしも「料理の基本をおろそかにしていたのでは?」と自らを省みつつ、お正月を迎えたわけだけれど。

さんぽ帰りに郵便受けをのぞくと、マルチンさんからメッセージカードが届いていた。

「DASHIをふるまうので、ぜひ、きてほしい」

と、書いてあった。

楽しみなような、恐ろしいような。

*収集車をまつ、もみの木たち。

 

さいごに、新年のごあいさつ。日本の2024年の幕あけは大変なことが続き、心のふさぐこともありますが、被災された皆さんの日常が少しでも早くもどりますように。心配ぐらいしかできないのが歯がゆいですが、それぞれできることを粛々としていくことが一番なのかな、と友人や家族と話しながら新年をすごしました。今年もどうぞよろしくお願いします。 くらら