アローザの谷をへだてて反対側に、ミリアムの山小屋はある。
「ちょうど、アプリコットケーキが焼きあがるわよ」
注文をとりにきたミリアムがいう。あまくてこうばしい香りがキッチンから漂ってくるのにきづくと、きゅうにお腹が空いてきた。
お茶のじかんというよりは、ランチのじかんだったが、焼きたてのケーキの誘惑には勝てない。食後にケーキを食べるため、ランチは軽くハムとチーズの盛り合わせを、皆でつまむことにした。
飲み物はりんごのサイダー。
アルコール入りのものと、ノンアルコールのものがある。りんごはトレッキングの疲労回復と水分補給に良い、と去年いっしょに歩いたガイドのトーマスに教わっていらい、トレッキングやスキーのときにはノンアルコールのりんごサイダーを飲むことにしている。
「チーズは、ぜんぶミリアムの手作りなのよ」
とカリンがいう。
「これ食べてみて。りんごサイダーでウォッシュしてみたの」
ミリアムにすすめられて、一番ちいさなひときれをおそるおそる口にいれてみる。ウォッシュ系のチーズはけっこうクセがあるので苦手なものが多いのだ。
カマンベールのようなソフトなチーズでちょっとピリっとした辛味をかんじる。恐れていたようなクセはなく、りんごのサイダーによく合った。
「そのベーコンはね、わたしが可愛がっていたブタなの」
真っ白な脂肪とほんのりピンクの赤身が、芸術的にきれいなストライプを描いたベーコンの一片。
つまみあげた私の手がおもわず止まる。
可愛がっていたブタ?
「死ぬ直前まで、それはそれはしあわせな生活をおくっていたから、おいしいわよ」
じょうだんではなく、しみじみと語るミリアム。
ありがたくいただかなければ、と思わず姿勢を正す。
ミリアムの愛するブタちゃんのベーコンは、みるからに幸せな豚生をおくったのであろうと思わせる美しさで、なめらかな脂が、舌にのせた瞬間とろけた。
とてもおいしかった。
アプリコットケーキといっしょにたのんだ、しぼりたてのミルクもサラサラしていて脂っぽくなく、さっぱりしていて飲みやすい。ビールジョッキぐらいの特大カップに注いでくれたが、ごくごく飲めてしまった。
しあわせに生きてると、肉もミルクもおいしくなる。単純なことだけれど、スーパーでパックされたものに接するだけの毎日ではわすれがちなことだ。
はじめて会ったとき「フルリーナみたい!」と思ったミリアム。 夏のあいだ、各牧場から牛をあずかりつつ、この山小屋に住んでいる。冬は街におりて看護師をしているそう。夏と冬ではまたずいぶんちがう生活を送っているようである。
まもなく山を降りるんだけど、ナースの仕事がはじまる前に旅にでるのがすごく楽しみ!とトレードマークのカラフルなニットキャップをきゅっとかぶりなおして笑った。
その年の予算におうじて行き先をきめるのだそう。季節によってダイナミックにライフスタイルが変わる暮らし、今年はどこへ旅するのだろう?
ミリアムは、ハイジの舞台となったマイエンフェルトからあずかった牛を含め、合計190頭ほどの牛をアルプと呼ばれる牧草地に放し飼いしている。
牛は夜も牛舎にはいらず、昼夜ともに放し飼いにされていて、野生にちかい環境で暮らしている。どこのだれさんの牛か、というのは番号で管理されていて、毎日、ミリアムが出席簿を手に、出席をとってまわるのが日課だそう。
山小屋にたどり着くまで、その広大なアルプを牛の群れのなか、じっさいに歩いてきた私たちには、その仕事がかなりの重労働であることがよくわかる。
「牛ってすっごく人なつこいのよ」
犬や猫みたいに、首をなでてもらうのが好きで、牛のほうから人を見つけるとすりよってくるのだそう。
そうとは知らず、ここに来るまでのあいだ、ものすごい勢いで近づいていた牛の群れにひとり取り残され、恐怖におののいた私。
大きさでいえば、頭突きでもされたらひとたまりもない大きさなのだ。それが何十匹も自分めがけて突進してくるのを想像してみてほしい。
結婚してはじめてスイスでトレッキングしたとき、赤いレインジャケットを着ていこうとした私に、夫が「赤いものを着ていると牛が興奮して危険」とまちがったアドバイスをしてくれたのが頭のかたすみに残っていた、というのも、必要以上に恐怖心をあおった一因。
その日、わたしは濃いピンクのフリースを着ていたからだ。
闘牛じゃないんだから、放牧されている牛さんたちは戦闘的ではない。たまに牛をおどろかせて怪我するひともいると新聞で読んだけれど。(つづく)
*ミリアムの言葉をしんじて、後日、牛さんの首筋をナデナデしてあげました。とっても気持ちよさそうに目をしばしばさせてるすがたは、まさに犬のよう。こわがらせないよう、最初はそぉっと試してみてください。
*フルリーナは「ウルスリのすず」と同じ作者の、スイスアルプスを舞台にした絵本です。