ニューヨーク。
それは世界一、家事のアウトソーシングがすすんでいる場所だ。
メイドが雇えるようなお金持ちだけではなく、一般的なサラリーマンの家庭でも、外部のサービスを積極的に利用している。
たとえば、ごくごくふつうのサラリーマンであるstep sonのPくん。
わたしたちが、滞在しているPくんのアパートも、そうじは、週に2回通いのお掃除スタッフさんがきてやってくれるし、洗濯はクリーニング店が、下着や靴下にいたるまでキロ単位で洗ってくれ、きちんと畳まれた状態でもどってくる。
ゆいいつごはんだけは、自分で調達しなければならないのだけど、それだって一歩出ればカフェにレストランに、テイクアウトに事欠かない。
Pくんは犬を飼っているが、散歩はドッグウォーカーがしているし、そのうち子供が生まれたらまちがいなくベビーシッターが子供の世話をするのだろう。
ぜーんぶアウトソーシング。
その気になれば家のことなど、なんにもしなくてよい。
そのぶん、仕事や、社交や、趣味や、自分のことに100%集中できるというのは、いかにもアメリカっぽい合理的な考え方だ。
しかし、しかしである。
ここ数日、どうにもわたしは落ち着かない。
それは、単に、留守中他人に家にあがられて、そうじしてもらうのに抵抗があるということではない。
はたまた、毎朝あいさつを交わすクリーニング屋のおじさんに、わたしのパンツをたたんでもらっていると思うと落ち着かない、ということでもない。
それよりもっとこう何か、地に足がついていないような、生きてる実感がわかないような、心許なさみたいなもので、胸がざわざわして落ち着かないのである。
窓を拭いたり、アイロンをかけたり、野菜を吟味したり。
そういうことをいっさいしなくてよい生活って、はたしてどうなんだろうか?
そう、たとえば、家事をいっさいしなくてよい暮らし、と聞いて思いうかぶのは老人ホームだ。
93歳になる義母は、90歳になる直前にスーパーマーケットでころんで、大腿骨を骨折した。
手術を受けて、リハビリをして、退院してからは義姉の家に同居した。
そのまま寝たきりになってしまうかもしれない、ついに老人ホームを検討しなければならないか。
と思いきや、杖で歩けるようになるやいなや、義姉たちの反対を押し切って、ひとりぐらしの自宅へ帰ってしまった。
「できるかぎりは、自立して暮らしたい」
そういって、93歳になるいまも義母は、そうじ、洗濯、毎日の料理にいたるまですべて自分でこなしている。
義母にとって家事は、エネルギーを消耗するばかりのやっかいなことではなく、生きるエネルギーを与えてもらう「よすが」なのだとおもう。
そしてそれは、わたしたちにとってもそうなのだとおもう。
週末は、グリーンマーケットにでかけてみた。
かざらない格好で、ねぎを吟味している人や、かぼちゃの重みを確かめている人。
野の花を無造作にたばねたブーケを、つっこんだショッピングカートをかたわらに、鼻歌を歌いながらりんごを袋につめているおばあちゃん。
そういう人たちに交じって、マーケットを何周もして、やっとこさポタージュにするバターナッツと、サラダにする根セロリとラディッシュ、ソテーする七面鳥、それからチーズをすこし手にいれた。
今日はひさしぶりに、料理だ。
地に足つけて、家事をしよう。
*ドッグウォーカーは、あこがれの職業。今でも機会があれば、やってみたい。ただし、小型犬にかぎる。