くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

パリの帽子屋

 フォーブル・サントノーレ通り14の16番地。たしかこの辺りのはずなのだけれど。看板をひとつひとつ確認しながらきたはずなのに、おめあての帽子屋はなかなかみつからない。これはもう、通りすごしたにちがいない。そう確信がもてるところまできてやっとわたしは立ち止まる。地図がまちがっているのかなとよくよくみれば、住所のとなりに《コートヤード》とあるのに気がついた。店は通りから一歩入った中庭にあって、通りには面していないらしい。

 なるほどね。わたしはくるりと向きをかえ、きた道を反対側からたどる。しばらく行くとふいに建物がとぎれ、中庭への通路がぽっかり口をあけていた。立ちどまってのぞきこむと、うす暗い通路の壁にもたれてタバコをすっていた作業員風の男性と目があった。本当にこの先にお店なんてあるのかなぁ。おそるおそる通路をすすむといきなりパッと視界がひらけ、広々とした石畳の中庭にでた。

 ぐるり石造りの建物にかこまれたその中庭には、カフェのテラス席においてあるようなテーブルが二つだされている他は何もない。ちょうどお昼どきだったから、テーブルを囲んでランチを食べている女の子たちがいた。カフェやレストランがあるわけじゃないのだけれど(この建物で働いている人たちなのか?)サンドイッチやお弁当を広げて食べているのだった。

 帽子屋は、ちょうどその二つのテーブルにはさまれてあった。

「ボンジュール」

 ドアをあけて店に入ると、サーモンピンクのベレー帽をくるくるカールした金髪にふわりとのせた店員さんがひとり。鏡のまえでトマトレッドのベレー帽を試着するお客さんに、アドバイスしているところで、

「探しているものや好みがあったらいってくださいね」

と、声をかけてくれた。

 わたしは店にくる前から、定番の冬用の黒いベレー を買おうと決めていたのだけど、そのお客さんがトマトレッドかオレンジかで悩みはじめたので、ディスプレイをみながら接客が終わるのを待つことにした。

 オリーブグリーン、レモンイエロー、カシスピンク、スカイブルー。ディスプレイされた夏用のベレーはどれもみていて気持ちがぱっと明るくなるくらいカラフルで、洗練された上品な色合いがうっとりするほど美しい。しばらくして、

「これにします」

 と声がしたのでふりむくと、先ほどから色で悩んでいたお客さんが頭にのせていたのは、さっきまで悩んでいたはずのトマトレッドでもなく、オレンジでもなく、ゴッホの絵にあるようなこっくりとしたマスタードイエロー。それはそのお客さんのうっすら日焼けした肌とダークブロンドの髪に、たしかにとても似合っていて、他人ごとながらため息がでた。

 こんなに美しい色彩を前に黒を選ぶなんて、なんだかもったいないなぁ。というか無粋な気がしてきた。しかし、初志貫徹。わたしは冬用の黒いベレーをだしてもらうことにした。店員さんは専用のメジャーで頭を測り、それからカーテンのむこうに消えてわたしの頭にぴったりのサイズのものを出してくれた。カンパンというこのモデルは、1cm刻みでサイズがあり、自分の頭にぴったりのものが選べる。帽子のフチが革なので、わたしのようにおでこに羊毛が当たるとチクチクする人にはおすすめだ。

 出してもらった帽子をかぶり、全身が映る大きな鏡の前に立ってみる。後ろや横に傾けてみたり、浅く、深くかぶってみたり。悪くない。サイズもゆるくもきつくもなくちょうどいい。わたしは出してもらった黒のベレー を買うことに決めた。

 ところが鏡の前を離れレジに向かう途中に、再びあのカラフルなディスプレイが目に入ったのがいけない。ぐらり。初志が揺らいだ。

「夏用に」

 と、言い訳して立ち止まる。それからまたいろいろ試着して、わたしの「黒い髪と肌と目の色に映えるから」と店員さんが選んでくれた、マリンブルーのキャスケットも買うことに決めたのだった。それにしても。こんな風に時間をかけて買い物をしたのは、いつぶりだっただろう? 帽子屋をあとにして中庭に出ると、ランチをしていたあの女の子たちの姿は、跡形もなく消えていた。

ロレール

14-16, rue du Faubourg Saint-Honoré 75008
www.laulhere-france.com