くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

ぼくの眼差し、だれかの物差し

ジュラの森に住む友人の家で、久しぶりにPさんに会った。

「夏はどこで過ごすの?」

わたしが聞くと、

「この夏は、大学生だよ」

とPさん。大学付属のフランス語サマーコースを受講するそうだ。Pさんはジュネーブ暮らしも長く、フランス語が話せないわけじゃない。それなのに、いったいなぜ?

「やっと時間ができたからね」

ずっとレベルアップしたいと思っていたのだ、と去年リタイアしたばかりのPさんは照れくさそうに笑った。

Pさんの笑顔はわたしに、一冊の絵本を思い出させた。

『ぼくのおじいちゃん』というその絵本は、小さな男の子のぼくからみたおじいちゃんの日常が描かれている。隣人のサラリーマンの暮らしが、あいだあいだに挟まれているのが対照的で面白いのだが、その中にこういう一節がある。

《昔、おじいちゃんは時計屋を持ってた(経営してた)。今、おじいちゃんは自分の時間を持ってる。お隣さんはいつも時間を気にしてるけど、時計屋じゃない。お隣さんにはぜんぜん自分の時間がない》

ガールフレンドとお茶したり、たっぷり時間をかけてラブレターを書いたり、犬や孫の「ぼく」との時間を大切にしたり。

そんな《時間をもってる》おじいちゃんの心豊かな暮らしを覗き見するだけでも、この絵本は読む価値があるのだけれど、わたしがこの絵本で一番好きなところは、それとは別にある。

それはこのお話が、孫の「ぼく」の目線で語られているところだ。

たしかにサラリーマンのお隣さんは時間に追われていて、おじいちゃんのように自分のために使える時間がない。でもだからといって、どちらの暮らしがいいとか、どちらの時間の使い方がまちがっている、ということはこの絵本の中で一切ジャッジされていない。

それは「ぼく」が、物差しをもっていないからだ、とわたしは思う。

「ぼく」はおじいちゃんとお隣さんの暮らしをみつめるだけで、それにいい・悪いの物差しを当てない。あるのは「ぼく」の眼差しだけだ。そのニュートラルな眼差しが読んでいて心地いいのだ。

そう感じるのは「だれかの作った」物差しが振りかざされる世の中に、わたしが生きているからなのかもしれない。

たとえばわたしたちが暮らす世界には(あえて分けるとすれば)子どもと、老人と、大人がいる。それ自体に、いいも悪いもない。でもこれに社会の役にたつ・たたないという物差しを当てた途端に、大人は役に立つけど、子どもは「まだ」、老人は「もう」役に立たない存在ということになってしまう。

人の価値も時間の価値も、自分で決めるもので、だれかの物差しで測るものじゃないはずなのに。

そんなとりとめもないことに考えを巡らしていたら、いつのまにか暦は変わって7月になってしまった。(白状するとわたしの時間感覚は「ぼく」のおじいちゃんに近い。)今ごろPさんも十代の学生と机をならべていることだろう。

このサマーコースは、わたしもジュネーブ に来たばかりのころに参加したことがあるのだ。クラスメイトは全員十代で、先生とわたしだけが四十代という恐ろしい状況だったけれど、意外と違和感なくとけこめていたように思う。

もっともそう思っていたのは、わたしだけかもしれないのだが……。

十八、九の学生が親や祖父母ぐらい世代のちがう相手とも、同世代と話すのとおなじように対等に話す様子が、日本から来たばかりのわたしの目には、とても新鮮に映った。

必要なのは自分の物差し、いや、眼差しだけ。「年齢」という物差しはいらないのだぁ、と思ったことを今でも覚えている。

『Cher Grand-pere』Catarina Sobral  (helium社)

(注:私が持っているのはフランス語版で、日本語版とけっこう訳が違います。タイトルも表紙デザインもちがうのです。日本語版の訳者は、松浦弥太郎さん。オリジナルのポルトガル語版はどちらに近いのでしょう?気になります