郵便物をとりにアパートのエントランス・ホールに降りてゆくと、掲示板の前で管理人のサントス氏が仁王立ちしているところだった。その視線の先にあるものは、みなくてもわかった。中央に猫の写真が印刷された貼り紙である。この貼り紙にはわたしも、数日前から気がついていたのだけれど、どうせいつもの「Le Chat Perdu」(ル・シャ・ペルデュ)だろうと、気にもとめず通りすぎていたのだ。
「Le Chat Perdu」というのは、迷い猫のこと。Le Chatが猫で、Perduが英語でいうとLostなので、直訳すると「失われた猫」ということになる。ちなみに、かたくなったフランスパンを卵と牛乳に浸して、バターで焼いてメイプルシロップをたらして食べる、あのフレンチトーストもフランス語では「Pain Perdu(パン・ペルデュ)」である。
古くなったパンのことを「失われたパン」だなんて……。プルーストの「失われた時をもとめて」(À la recherche du temps perdu(トン・ペルデュ))ばりに詩的なひびきがして、フレンチトーストよりも百倍すてきな呼び名だが、「Le Chat Perdu」のほうはといえば、バス停やスーパーマーケットでしょっちゅう目にするものであるため、いちいち気にもとめていられない。
「まったく、困ったもんですよ」
と管理人のサントス氏が、大きなため息をついていうには、昨今この写真の猫が、アパートの共用スペースを排泄物で汚してまわるので、掃除する手間がふえて困っているらしい。
つまり貼り紙は「Le Chat Perdu」なんかではなく「心当たりのある飼い主は、なんとかするように」という管理会社からのお達しだったわけだ。
どうりで「迷い猫」にしては、ふてぶてしくて悪そうな顔つきの写真なわけである(飼い主なら「迷い猫」の貼り紙には、できるだけ愛くるしい写真を選ぶものだろう)。サントス氏が撮影したというその「指名手配犯」茶トラの猫と、写真のなかで目があった。
「マダム、お心当たりは、ありませんね?」
サントス氏は、刑事のような鋭い目つきで、わたしにさぐりをいれた。
「ま、まさか」
わたしはあわてて否定して、その場を立ち去った。郵便物をかかえ、階段をのぼりはじめた胸のあたりが、みょうにドキドキしたのは、階段のせいでも、更年期による動悸・息切れのせいでも、もちろんなかった。
それは「お心当たりがないか?」といわれれば、なきにしもあらずだったからなのだ。この茶トラには、見覚えがある。ロックダウンを機に、ベランダでたびたび猫語で会話するようになり、いまではすっかり熱い友情で結ばれているあの猫だ。
ふと殺気をかんじて、階段のおどり場でふりかえると、疑り深そうな目つきでこちらを見上げるサントス氏と目が合った。なんだか見透かされているような気がして、わたしはごまかし笑いをし、首を横にふってみせた。
サントス氏には同情するけれど……指名手配されているからといって、数少ない友を裏切るわけにはいかない。
高額の賞金がつけられているなら、話は別だけど。
#こんど会ったら、注意しておこう。友よ、指名手配されてるぞ、と。
#失われたパンをもとめて、Pain Perdu
#さいきん買った絵本のタイトルにもペルデュ発見。迷い犬(Le Chien Perdu)の貼り紙って、あんまりみかけないけど、どうしてなんだろう?そういえばいちどだけ、写真が人間のおじいちゃんだったことがあってびっくりしたけど、その貼り紙に「おじいちゃんペルデュ」と書いてあったかどうかは、びっくりしすぎて確認するのを忘れました。