くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

数独と山羊:コーニェ村日記(4)

2月7日(火)晴れ

肋骨にヒビが入ったかもしれない。脇側を打ったのに、痛むのが胸側なのが不気味だ。あんまり詳細は言いたくないのだが、リフト乗り場で横倒しに転んで、転んだところに金属製のレールがあったのだ。息をするたび、痛みとともにジャリジャリ音がしている。

本当にヒビが入っていたら「痛みはそんなものではすまないから、安心しろ」と、思いやりがあるのかないのかよくわからないRは、まだ滑りたそうにしていたので、わたしはカフェで待つことにする。

もともと客はまばらだったが、夕方ちかくになると出ていく客はあっても、入ってくる客はない。しばらくすると、とうとうわたし一人になってしまった。ご主人とわたしの二人きりの空間に、ムダに明るいアメリカン・ポップスが流れている。カプチーノも空になってしまうと、何だか気まずくなってきた。

「わたしに構わず、ひと休みしてくださっていいのですよ」などと、心の中で呟いていたのが聞こえてしまったのだろうか。エプロンを外してカウンターから出てきたご主人が、(空いてる他のテーブルではなく)わたしの座っているテーブルの差し向かいに、よっこらしょ、と腰を落ち着けてしまったのには参った。

気まずい。うろたえて空っぽのカプチーノをすすってしまうぐらい、気まずい。

しかし、気まずいと思っていたのはわたしだけだったようで、ご主人は落ち着きはらった様子で胸ポケットからペンとメガネをとりだし、テーブルにおいてあった新聞の数独をはじめた。それから、三十分ほどだろうか。アメリカン・ポップスが流れる中、ご主人は数独に没頭し、わたしはわたしでスマホでもくもくと本を読んだ。いつのまにか気まずさは消えていた。それどころか、心地よい時間が流れていた。

カフェからホテルまで降りていく途中の森のなかで、野生の山羊をみた。わたしたちに気づいても全然逃げてゆかず、餌でも探していたのか雪の中にしきりに鼻面をつっこんでいた。ホテルに置いてあった本に載っていたのと「まったく同じ種類の山羊だ」と興奮する。

数独と山羊。

本日、記すべきことは以上だ。

いまだ肋骨は痛む。

息をすると、ジャリジャリいっている。

(コーニェを発つまであと、二日。)

『Hotel Bellevue』の冊子より