くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

笑顔の功罪

夕暮れのバス停で、通りがかりのおじさんに笑顔であいさつされた。反射的にこちらも笑顔であいさつを返したのだけれど、はて、誰だっけ? うしろ姿を見送るも心当たりがない。住宅街や公共の場で居合わせた人どうし、見知らぬ人とあいさつを交わすこと自体は決して珍しくない。とはいえ、多くの人が行き交う市中のバス停であいさつされるとしたら、それはやはり知り合いである確率が高い。

いろいろな可能性に思いを巡らしてみたが、思い当たる人物がなく、わたしはモヤモヤを抱えたままバスに乗りこんだ。たぶん、本当に知らないおじさんだったのだろう。世の中にハッピーな人が増えたのか、じつをいうとこのところ、見ず知らずの人に笑顔であいさつしてもらう機会が増えているのだ。

バスの座席に腰を落ち着けると、わたしは外れかけたイヤホンをさしなおし、ラジオの続きをきいた。このワイヤレスのイヤホンは、コロナ禍がはじまる直前に町内会の福引でもらったものだ。それまで外でイヤホンを使う習慣はなかったのだけど、ロックダウンをきっかけに、歩きながらラジオをきくようになった。きくのは主に「お笑い」だ。

Rはユーモアのセンスがゼロな上に、外国人のユーモアは日本のものとは全然ちがうため、慢性的にわたしは日本のおもしろい話に飢えている。だからといってそのためだけに、忙しい友だちを呼びだすわけにもいかないし、だいいち素人どうしではおもしろい話にたどりつくまでに相当な回り道を強いられる。

その点、すきま時間に手軽にプロのおもしろい話をきけるラジオは、ちょうどいい。くすっと笑える話や、きき終わってからニヤニヤしてしまう話、ときには声をあげて笑いたくなるような爆笑ネタなど。歩きながらきいているといつのまにやら手持ちぶさたが解消され、明るい気持ちでどこまでも歩いていけそうな気分になる。

次のバス停で学生のグループが降りると、車内は急にガランとしてしまった。入れ替わりにパラパラと乗客が乗りこむと同時に、強烈なムスク系の香水がわたしの鼻をついた。四人席の向かいに座った香りの主の男性に、わたしはチラリと目をやる。

……だけのつもりだったのだが。

わたしの目はそのぶあつい胸板ではちきれんばかりの白い薄手のセーターに釘づけになる。あきらかにサイズが、まちがっている。しかしトレンドのルーズフィットなどモノともしないそのサイズ感は、上半身だけにとどまらない。視線を下げるとそこでは筋肉でもりあがった太ももが、ピチピチの革パンにかろうじておさまっていた。

言い訳をするようだが、このときわたしがみていたものは、筋肉であって筋肉ではなく、太ももであって太ももではない。というのも、それを目にした瞬間ほとんど反射的にわたしの脳裏には、とある美女の顔が思い浮かんでいたからだ。筋肉をこよなく愛するその美女は、個人的にそれらを愛でるだけでは飽き足らず、消防士のカレンダー画像や、コロナ時に臨時病院を設営するため招集されたミリタリーの映像(ムダに薄着)などといったものを、ときどきLINEでおすそわけしてくれる人なのだ。それにしてもこのパブロフの犬もびっくりの反射反応は、筋肉をみて「彼女のことを思い出した」などという悠長なものではなく、そのことがわたしを苦笑させた。

そのときだった。

わたしがフッと笑いをもらし、顔を上げるとその男性と目が合った。あわてて苦笑いを顔からはがそうとしたが、もう遅い。男性はニヤリ、と笑みを浮かべウィンクを投げてよこした。うろたえて視線を外すと、外した先で若者がうす笑いを浮かべていた。

嗚呼、マスクさえあれば。

奇妙な笑顔の連鎖とムスクの香りに、絶体絶命のわたしは思う。マスクがあれば、人は仮面をつけずにすむ。笑いたいときに笑い、笑いたくない時には作り笑いする必要もなく、口をへの字にしていたって、舌を出すことだってできる。がしかし、ところ構わずニヤニヤしていい時代は、終わったのだ。わたしたちは再び、仮面をつけなければならない。お笑いラジオでにやけ顔のわたしに、見知らぬ人があいさつしてくれるだけならば、笑顔に罪はないのだけど。