狼山パン店は、Rの古い知り合いがはじめたパン屋で、いまは息子さんが店主をつとめている。狼山というのは、Wolfisbergというその一家の苗字なのだ。川向こうにあるこのパン屋には、だから、ではなく、パンが美味しいのでときどき歩いて買いに行く。併設のカフェでクロック・マダムを食べるのを楽しみに久しぶりに行ってみると、ほぼ満席の大盛況だった。
なんとかみつけた小さな席におしりをねじこむと、両隣とは肩がふれそうなぐらい距離が近い。しばらく肩をすぼめていたのだけれど、クロック・マダムが運ばれてくるころには、身体もその空間になじんでしまう。左側の老夫婦は時折コーヒーをすする以外、互いに別々の新聞に目を落としているし、右側はスマホに夢中の母親のかたわらで男の子が絵本をひろげているというぐあいで、ちょっと窮屈なのをのぞけば、居心地は悪くなかった。
男の子が読みふけっていたのは、イースターの卵を届けるうさぎの絵本だった。なかなか面白そうな絵本ではあったけれど、わたしが目をみはったのは男の子の集中力である。このさわがしい店内で、よくぞ、と大人のわたしが唸ってしまうぐらい、男の子は絵本の世界に没頭していた。わたしたちが隣の席にきたことすらも気づいていないにちがいなく、完全に絵本の世界に行ってしまっているのだ。
うらやましいなぁ。
わたしは思わず男の子の横顔にみとれてしまう。
わたしはといえば、近ごろまったく集中力が保てない。読書をしても集中できるのは三十分がいいところだし、映画やドラマもながら観ばかりである。言い訳めいてしまうけれども、目がしょぼしょぼするのは歳のせいだとして、安くて(ときには無料で)手軽に観るもの・読むものがあふれる時代だからというのもある。
よく考えてみたらほんのちょっと前までは、テレビドラマはリアルタイムで観るしかなかったし、映画は安くないお金を払って映画館で観るしかなかったのだ。あの頃はたしかに不便だったけれども、いまここで集中しなければ!という切迫感と、ありがたみのようなものがあったようにおもう。
便利で選択肢がありすぎて不幸、というのは何とも皮肉だ。でもだからこそ、没頭できるようなものに出会えたときの喜びはひとしおなのかもしれない。
男の子の読んでいた絵本は、こうしめくくられていた。
……Because in a special place on the wall, on a very special hook, hangs a pair of very tiny little gold shoes.
『The country bunny and the little golden shoes』by DuBose Heyward
男の子がそっと絵本を閉じたとき、知らず知らずわたしは心の中でつぶやいていた。
(めでたし、めでたし。)
いつのまにかわたしは、絵本の世界にひきこまれていたのだった。
「隣の芝生は青い」というのは、この状況を表すのに適切な言葉ではないのかもしれない。しかし他人のモノというものは、どうしてこうも魅力的にみえるのだろう?
そういえば飛行機の中でも、自分がみている映画より、斜め前の人の画面が気になってしょうがないし……と顔を上げると、Rが老婦人の新聞をのぞきこんでいるところだった。
いっそのこと。
集中するには他人のものをみるのがいいのかもしれぬ。