くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

恐るべし、スイスアルプス:クランモンタナ 山日記〈後編〉

朝方、かちゃり、とドアの閉まる音がして目が覚めた。隣に目をやると、ベッドはもぬけの殻だった。遮光カーテンのすきまからは細くひとすじだけ、朝の光が射しこんでいる。ぼんやりした頭で考えるうち、Rが昨夜「朝、パン屋に行く」といっていたのを思い出した。パンを買いにいったわけではない。パン屋に忘れてきた帽子をとりに行ったのだ。

じつをいうとクランモンタナ は、Rにとって〈物を失くす〉鬼門だ。前回、冬にスキーに来たときもマフラーと、ヘルメットと手袋を失くしている。あの時は失くしたものはとうとう返ってこなかったが、今回は、

「ロジャーのだから、必ずとりに来ると思ってたよ」

と、パン屋さんが待っていてくれたらしい。

ヨレヨレのユニクロの帽子を、まさか、早起きして取りにもどるほど、Rが気に入っていたとは知らなかったし、パン屋さんが捨てずにとっておいてくれたのにもびっくりした。たしかに、ロジャー・フェデラーのキャップは、ユニクロのない本国・スイスでは入手困難な一品なのだけれど。

ところで忘れものといえば、今回はわたしもあまり偉そうなことがいえない身分なのである。

スイスアルプスにくるのにトレッキング・シューズを忘れてきた上、久しぶりに履こうと思ったらトレッキング・パンツがぱつぱつで入らない、という緊急事態が発生したのは、リゾートでむかえた初日の朝のことだった。

パンツはともかく、シューズは痛恨のミスだ。スイスの人たちはちょっとしたハイキングでも、服はともかく靴だけはちゃんとしたトレッキング・シューズを履く。街歩きのスニーカーでは危ないし、第一、疲れ方がまったく違うからだ。

ところが、

「一番大切なものを、忘れるかねぇ」

と、ニューバランスのスニーカーの紐を締めるわたしに、冷たい視線を投げかけていたRも、歩き始めてものの五分でトレッキングシューズの靴底がボコっと丸ごと外れるという惨事にみまわれる。

その上、久しぶりのハイキングに備えて、股関節を伸ばしておこうと急にヨガをやったせいか、出発前にギックリ腰をやったわたし。

とまぁ諸々の事情もあって、ここまでは山歩きはほどほどに、森や湖畔を散策したあとはスパでのんびり過ごしてきたのだけれど、この日は前日の「車道ハイキング」のリベンジも兼ねて、

「最終日ぐらいは、ちょっとした山歩きがしたいよね」

ということになった。

「短時間で歩けて、高低差があまりなく、街歩きのスニーカー でも歩けて、しかもスイスアルプスを堪能できるハイキングコースはありますか?」

ときくと、コンシェルジュがおすすめしてくれたのが〈マーモットの小径〉だ。

上記の条件をすべてみたし〈ローヌ川の流れる谷間を眼下にスイスアルプスを眺め、牧草地を歩けばカウベルの音が聞こえる〉というこのハイキングコースには、マーモットが多く生息しているらしい。

「驚かさないように、静かに歩いてください」

そうすれば、マーモットが巣穴から出ているところをみられますよ、とコンシェルジュの男性は、くちびるに人差し指を当てた。

期待に胸がふくらんだ。

しかし、その日わたしたちがマーモットに遭遇することはなかったのである。

視界に入った到着地点(だと思いこんでいた。でもちがった)のロープウェイ駅の鉄塔めがけて、まっしぐら。いいつけは守ったけれども、道標には従わなかったからだ。

「ほぼ平坦、って言ってなかった〜?」

その日の夜。ベッドに入る前にスマホを確認すると、万歩計アプリはわたしたちがビルを〈29階分〉昇ったことを示していた。

そのかわり、急性期をすぎれば体を動かしたほうがよい、というのは本当で、わたしのぎっくり腰は、翌朝、すっかり治ってしまった。

(おしまい)

*歩けるようになったのは『ハイジ』のクララだけじゃない? 恐るべし……スイスアルプスのヒーリングパワー。このクランモンタナ も含めスイスの山岳リゾートの前身は、結核患者のサナトリウムだった所が多いのです。