くららの手帖

ローヌの岸辺暮らし、ときどき旅

ムッシュの薔薇

暦の上ではまだ春のころ。初夏を思わせる陽気に誘われて窓を開け放していると、階下のテラスから食器のふれあう音と静かにおしゃべりする声とが、パラパラと部屋に忍びこんできた。お客さまかしら、とのぞいてみると、特等席に丸くなっていたのは、あの猫。

「では、また」

ムッシュが席を立っても、猫は顔をあげるでもなく、まだまだ居座りたい様子。

「行くよ」

と、ムッシュ。階下の住人が笑う声がしてやっと猫は椅子から飛び降りて、しぶしぶ、ムッシュのあとをついていった。

ムッシュは、ならんで二棟たつアパートの別棟の一階に暮らしている。たぶん一人で。その部屋には手入れの行き届いた大きな庭がついていて、季節ごとにみごとな花を咲かせる。とくに薔薇がすばらしい。別棟ということもあって面識はなく、名前も知らないのだけど、わが家のベランダからは庭仕事をしているムッシュのことがよくみえる。

朝一番に水をやりながら、枝ぶりを確かめて歩きまわったり、鉢の位置を入れ替えたり、嵐のあとに残骸を片付けたり。ムッシュが丹精こめて育てた薔薇は、毎年、夏になると小さな子どもの顔ぐらい大きな花を咲かせる。ところが肝心な開花時期に、毎年ムッシュはバカンスにでかけてしまって家にいないのだ。すべての窓の日除けがぴっちり閉められた無人のアパート。その庭の垣根の上に顔をのぞかせて咲き誇る大輪の薔薇を、ムッシュは見ることがない。

それなのにどうして毎年毎年、毎日毎日、苦労して薔薇を育てているのだろう? わたしは理解に苦しむ。ちなみにその庭は通りに面しているわけではなく、道行く人の目を楽しませるために、という理由も当てはまらない。しかし理由は何であれ、この夏もムッシュの薔薇は色とりどりのみごとな花を咲かせていた。けれどもムッシュはいつもと同じくお留守で、かわりにわたしが花を楽しませてもらったのだった。

今年の夏は、少し変だった。例年ならば8月中旬に雷が何日か続くと、それを境に涼しくなってそのまま秋になるのに、いったん涼しくなった後に夏がぶり返して、学校が始まるころになって猛暑日が続いた。それに、バカンス から続々と人々がもどってきて、街が再びにぎやかになっても、ムッシュのアパートは日除けが閉められたままだった。

ムッシュは、なかなか帰ってこなかった。そのうち、庭に家具が出され業者が出入りしてリノベーション がはじまったので、そうか、と納得がいく。きっとリノベーション のあいだ、ムッシュはバカンス を延長してどこかで仮住まいしているのだ、とわたしたちは話していた。

そうではなく、ムッシュは夏がくる前に亡くなったのだ。そう、教えてくれたのは、帰省していたポルトガルから戻ってきたばかりの、管理人のサントスさんだった。コインブラの実家を訪ねたあとは、海の別荘で夏じゅう家族ですごしたという、その顔はぴかぴかに日焼けしていて、何だか無性に夏の終わりを思わせた。

だれも手入れする人がいなくなったムッシュの庭は、いけ垣が伸び放題になっている。今朝は引越しのトラックがきて庭の植木鉢やテーブルを運び出していた。ムッシュ、きれいな薔薇を毎年、ありがとうございました。わたしは心の中でつぶやいた。

夏の終わりはいつも寂しい。けれども、今年はなおさら。そういえば。ムッシュの猫は、今ごろどうしているだろう?